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私とは誰なのかという問い。やっぱり寺や僧侶がそれを解き明かすヒント。血はあらがえない。だから僕はいまお布施巡礼をしようとしているのだ。
自分のこれまでの歩みや特徴、赴く方向などを見ていると、やっぱり僧侶の血が入ってるんだなあと感じる。醸し出されている、雰囲気や在り方。ここ2年ほどで、僕の背景を話していないのに、僧侶っぽいね、歩く寺、説法してるみたいと言われたことが何度あっただろうか。継ぐ選択こそしなかったし、これまで寺や僧侶関係のステージが目の前に訪れたことがそんなにはなかったのだが、26年間生きた今のこのタイミングで、ようやくその波に来たように思える。
その話をする前に、前置きを少々。
ぼくは、人や土地土地に訪れる旅を良くする。最近は日本各地だが、以前は海外。また日本で働いたり、海外で働いたり、今の世の中の流れに身を置いてる時期もあったり、意識が高い起業家やベンチャー系の人たちとよく絡んでいたこともあった。まるで多種多様の人々の生活やライフを覗いて、人間とは何なのか?という問いを自分の体感で感じようとしているようだ。自然や寺社仏閣に赴くこともよくある。これも同じく、自分の足で感じ、何かを得ようとしているようだ。
それは、巡礼しているともいえる。確かに思い起こすと、よく私は目をつむったり、手を合わせたりして、祈り(自分や神様へご挨拶や近況報告、コミュニケーションも)を捧げること多かったきがするし、日常になっていた。この地球のこと、あらゆることを触れ、常に「ある」人類の、いや地球の大いなる問いを見出そうとしているようだ。または、自分とは何者なのかという問いを探しているとも言える。またはまたは、この地球一体になろうとしているのかもしれない。学生の頃からずっと70億人みんな友達と言い続けてきているし、あらゆる生命、皆と家族になっているイメージが強烈に常にあるのだから。
その様子は、視点を変えれば、修行をしているともいえるかも知れない。通常、お寺と言えば、拠点を持つが、私は旅しながら、歩きながら、世界を巡っている。どんな人間がこの世にいるのか、食生活、暮らし、考え方、今何を大切に生きているのかなど、時代の流れや世俗の声だけでなく、一人ひとりの声にも耳を傾けたいと思っている。行者や修験、山伏という概念に最近であったのだが、まさにそんな気がする。とても出会い、しっくりきた。山を歩き、祈りを捧げる。その様子はまさに自然と一体で、自然をリスペクトし、自然とは何なのかと自ら歩き育んでいる。自分という小宇宙を知ることだとも思う。自分を知り、世界を知ることで、僧侶として、この世の命題、気付きを解こうとしている。それをどんな状況の人へも伝わるように、あらゆる方向からのメッセージで伝えようとしているようだ。人々の解放と自然生命の調和と一体、すべての生命は家族になり得るということを証明するために。これが自分にとっての使命、シゴトなのかもしれない。
自分という人間の旅の中で、これまで、特にこの2,3年で、自然に出会ったこと。それらは、人間の解放、地球・自然との調和、真理に多く紐づいているものに思える。またはそのヒントになり得るもの。人間が歩んでいく中で必要となるサポートアイテムのようだ。自分と対話をし始め、あらゆることを自分、自然、人々、神様が教えてくれた。「対話、nvc、セルフケア、ギフト、舞い、音、アート、瞑想、暮らし、祈り、自然、人間の解放、パーマカルチャー、菌、非二元、ヨガ」、などなど。時代を生きる様々な世界の住人達と出会い、触れ合い、自然や土地土地と触れ合い、自分と共にあり続けた。自分という小宇宙を理解することは、世界を理解することとニアリーイコールだと思っている。
そんな中、今年に入って、僕は大いにバランスが崩れた。上記のようなことが自分の中を駆け巡り、さらには僧侶の祖父が亡くなったり、実家が相続の話など。さらには、自分にとっての大切な場所、沢山の出会いとヒントときづきを受けとった、九州を離れろという自分からのメッセージ。僕にとって、あの時の段階で、もう九州でのステージはいったん終了してるから、次へ行けと。地元京都に帰る流れ。何かのピースがお前のこれからの人生で必要なんだと。それを探せ、それを育めと。自分のルーツ、自分を知る旅を勧めろと。だから離れろ。でも九州ステージはいずれまた戻ってくると。
お寺への可能性を見出していたので、実家や祖父のお寺を活用してできないものかと考えたりした。それが次のステージで必要なことだと当時の自分のこれまで持っていたピースを見ると一目瞭然だったから。ただ、使命や家(族)や寺、本当に重々しいものだった。その圧倒的に力強いエネルギーに僕は3か月ほど真っ暗な、泥沼の中にいた。背負いすぎたのかもしれない。
そんな中での、目の前にから揚げをお布施している人に出会う。自分の中で、それこそが、必要だったピースだった気がする。未知すぎて、見えないくらい遠かった道に光が差した気がした。お布施、バックグラウンドや方向性がかなり似ている仲間の存在。彼からの出会いを通じて、山伏、奈良、半俗半僧。もう既に出会っているからと、怠っていた瞑想やマインドフルに生きること、手を合わすこと、歩くこと、自分と対話すること、日々の実践によってそのアイテムたちも磨かれるのだということを改めて気づき直させてくれた。
九州を離れた僕にとって、次に必要なピースは「お寺」「僧」であるのは違いなかったと思う。でもあまりに見えなく、道のりが遠く、大きなもの過ぎて、どうしようもなかった。でも、やっと!やっと!少し進めた気がする。
お寺、僧というピース。私にとって、大きなテーマ。もっともっとこれから学ぶことと深めることがありそうだ。
人と自然と修行と癒やしと・・・色んなことが起こる空間のお寺も作るんだろうなあ。
今日も生きている。わたしのいのちを生きている。
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![松本直也|きのこ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/128310291/profile_4901bd0bea9fe7dda0d13ea6aeedc707.png?width=600&crop=1:1,smart)