巡礼というあり方を社会に伝える難しさ

地に足をつくことを求める人がいる。

それが大人や立派、ゴール、ちゃんとしてる、というイメージに繋がるからなのか。

僕は、自分を本気で生きていたらなんでもいいし、人にはお役目や唯一無二の輝くなにかが皆んなあると思って生きているスタンス。


巡礼を本気でしてたら、それは地に足をついてることにもつながるし、旅人や放浪やニート=未熟、まだまだ、不安定みたいな扱いや概念が、年上世代の”あたりまえ”として多かれ少なかれあると思う。

よくその方程式にのせられるので、その時はできる限り、説明させていただいております。


なにもないことがこわい。社会から人から認められない。何かになることで生まれる安心感。なにもないただの自分は、社会的に見て、無価値である。何者や肩書きを欲しい。私には価値がある。私はなにかしてる。成熟だ。一人前だ。大人だ・・・

みたいなことがプロセスの中で起こるんじゃないかなぁと。

もちろん、何かになることで、より多くの人に、社会に伝わり、広がっていき、より色んなステージにいける側面はもちろんありつつも、どういう気持ちや心でそれが行われるかということはとても大切だなぁと。恐れや縛りなのか、願いや夢や愛、思いやりがベースなのか。誰かや社会のエネルギーに飲まれて、自分の声を見失っているかもしれない。  


「何もない」「意味がない」ということがいかに難しいのかを、痛感している日々だし、それを自ら求めているわけではないのだけれど、そういうふうになっているんだから、しょうがない。僕は、そういうやつなんだと思うだけ。ただの自分であること、何もないを極めようとしているのかもしれないなと最近思ったりします。生き方を探求したり、生きるにまつわるあらゆる概念自体、人間の道みたいなところをど真ん中に置いて、進んでいってるきもします。それが自分にとっての「しごと」なんだろうな。

音楽を極めて、毎日それを考えたり、行動する人がいるように。僕にとっては、巡礼することや、概念を探求することなんだと思います。



何もないからこそ、巡礼してるからこその輝きや独自性。そんな僕も含めた巡礼者、ニート、なにもない、旅人というあり方。なんなら、自分にとっては意味がわからないようなどんなことでも認められる、リスペクトできる、そんな世界がいいな。





 

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松本直也|きのこ
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