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回想の、読書や映画

若いころから、読書好き。読書は、何かの手段ではなく目的で、その効能は「楽しみ」と思っていた。その結果、雑読多読のエンタメ志向で、たまには文学〜という好みになった。
https://note.com/naotoshimonaka/n/nf3079dd3cf88

来年は、息災なら、ついに後期高齢者という年齢に至る。
「最後の趣味は、気ままな読書と軽登山」と決めているが、どこまで続けられるか不明だ。なぜなら、読書も登山も(軽登山であっても)身体能力が必要で、加齢が進むほど「体力勝負」になってくる。

本格派登山にはほど遠いにしろ、登山をガリガリやっていたころは、チームで挑むアウトドア活動に重点を置いていた。チームを組むことで、ひとりではできないことができる。

読書については、もともと孤独な営為で、登山でいえば「単独行」のようなものと考えていた。同好の士と本の話にふけることは嫌いではなかったが、読書会のようなコミュニティとは無縁だった。

登山体力が落ちてくると、たとえ軽登山でも自分のペースで歩ける単独行が増えてくる。最後の楽しみは、孤独と偏屈のなかで黄昏てゆくのでありましょう。せいぜい、SNSでブツクサ独語を開陳する程度の、ゆるい偏屈。

映画も、読書と同じく娯楽と割り切っていた。
とくに、若いころは、アクションやSF映画を中心に、映画に親しんだ。今でも、好きだった映画が、断片的な脳内記憶で点滅したりする。
渋谷の「全線座(と大盛堂書店)」には、高校時代からお世話になった。全線座では、西部劇の記憶が鮮明。「ダンディ少佐」や「片目のジャック」、もしかしたら「砂漠の流れ者」もここで観たかもしれない。
「イージーライダー」や「ミッドナイトカウボーイ」も懐かしい。これらの作品で洋楽にも開眼した。このころの米国映画は、刺さる映画が多かった(「M★A★S★H マッシュ」や「ダーティ・ハリー」やら)。

SF映画では、最初の「エイリアン」や「スターウォーズ」、「ストーカー」等々に衝撃。「砂の惑星」は新旧ともども堪能した。

邦画(ヤクザ映画や時代劇だが)も好きだった。
新宿の武蔵野館では「昭和残侠伝」などをまとめて鑑賞した。新宿三丁目のアートシアターは、残念ながら、あまり好みではなかった。日活映画は、ほとんど知らなかったが、大映のヤクザ映画は江波杏子の「女賭博師」。まあ藤(富司)純子の「緋牡丹博徒」の色っぽさには、江波杏子もたじたじだったな。
「女囚さそり」の梶芽衣子には痺れた。
ただ東映のヤクザ映画も「仁義なき戦い」あたりからなんとなく打ち止め。実録モノより様式的なヤクザ映画が好きだったのね(ニセ歌舞伎)。
東映作品では、梅宮辰雄の「不良番長」シリーズがお気に入りだった。シュールな駄法螺アクションで、梅宮辰夫が大暴れ。「不良番長」の流れで、「スケバン」シリーズも公開されたが、池玲子のカラダ張った暴れっぷりがド迫力。菅原文太の「トラック野郎」はイマイチだった。
松竹の「寅さんシリーズ」は初期のころは素晴らしかったが、しだいに遠ざかり。山田洋二映画は食わず嫌い。
男優では松田優作が好きだった。早逝が惜しまれる。ややマイナーな作品だったが「ヨコハマBJブルース」は、矢作俊彦のハードボイルドを思わせる傑作だと思う。
カドカワ映画は、初期の横溝映画と松田優作の「蘇る金狼」以外、ほぼ知らない。

当時は、テレビでも映画をたくさん放映したので、テレビで知った映画も多い。映画は最高の娯楽だった。
現役映画評論家の宇賀川洋幸君と仲が良かったことも、映画館に足を運ぶ理由だったかも知れない。レンタルビデオの時代に入ってから、あまり映画を観なくなって現在に至る。

現在は、「映画好き」というより「映画館好き」だ。アマプラは、たまーに観るがネトフリとは契約していない。
池袋のグランドシネマサンシャインは、映像音響設備が素晴らしく、作品に没入できるので愛用。もしかしたら月イチくらいは映画館に行ってる。観るのは、もっぱら娯楽作品。最近公開された、山崎健人のアクションは、原作マンガ知らなくても、だいたい観たよ(ゴールデンカムイ、陰陽師、キングダム)。

読書は読書体力に合わせて続けているが、書店には、ムカシほど頻繁に足を運ばなくなった。
仕事がら、神保町の東京堂書店や池袋のジュンク堂を回遊するけれど、紙の新刊書はほとんど買わなくなった。古書店巡りは20代前から親しんで、お宝探しの気分で遊ばせてもらった。
今は神保町「@ワンダー」の新入荷の棚を定期的にチェックするくらい。

雑誌大好き人間だったが、ほとんど購入しなくなった。
印刷仕事でも、雑誌の黄金時代を体験しているので、思い入れはあるけれどそれは回想に後退した。

2018年春。所有していた書籍雑誌を思い切って断捨離した。相当な量だった。売れるものはすべて売り、売れないものは産廃に出した。手元に残したのは、「再読したい本」と「未読だけど必ず読むつもりの本」のみ。それ以外はすべて処分した。雑誌類は、大量のバックナンバーも含めて全処分。
現在は大型の書棚2本が蔵書といえば蔵書だが、本棚を背景にして俺が写真に納まるような環境ではない。

さらに、加齢で眼があがって、バックライトが無いと本を読むのが辛くなった。白内障の手術もしたが、それでも紙本は辛い。級数の小さい雑誌はもう読めない。たぶん手持ちの書棚2本分の紙の本を読むだけでも一生の仕事になりそうだ。今は、新刊書は電子本があれば電子一択。
ただし、読みたい本で電子化されている書物は存外少なくて、積ん読の紙本を消化するだけでも、俺の人生では精一杯

世間では、書店が減ってゆくことを惜しむニュースが多いが、もう他人事のようになっている。人が、本を読む動機はさまざまだし、書店や図書館に通う動機もさまざま。俺的には手持ちの書籍と折々の電子本で、読書はほぼ十分と思っている。スマン。

おっと。
「商売」としての書籍世界はまた別だ。本を書きたい人には、noteのようなプラットフォームがある。自費(己)出版も、手軽にできるようになり、「軽出版」という既存のビジネスインフラに頼らない本作りも話題になる。電子書籍の普及によって、「紙+電子」で書籍の出荷は下げ止まった。俺の商売でも、写真集のような豪華本までクラファンで作ってしまう人々がでてきたし、「ひとり出版社」や「独立系書店」が話題になる。これはこれでおおいに結構。
「書店」という既存インフラの末端だけで考えて、「今ドキの若いモンは本を読まない~」なんぞと悲憤慷慨しても生産性は低いだろう。
そんなこと声高に語るオッサンに限って、いま現在は、あまり本を読んでいないと思う(邪推)。

俺が、日本百名山35座登っている、複数回登った山もある~なんぞと威張っても、現在の脚力では一座も登れないので、自慢しても無意味。それと同じだ。読書も、今、これから、何を読むか(含む再読)がたいせつ。

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