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牛肉を愛した偉人たち ㉒・アントニオ猪木

  わたしのかじっているこの骨付きのブタは、ブラジル料理です。弟の奥
 さんがブラジル人で、うちのやつが習って作ったんです。こんなことをわ
 たしの口からいうのはなんですが、うちのやつは料理がうまいって、みん
 なに好評です。もっとも結婚した当時は、料理なんて全然出来なかったん
 ですが、まあ、仕事が忙しかったせいもありますが、わたしが帰ってくる
 とごはんだけたいてあって、一人でカラシメンタイなんかで食ったりでし
 た。
  わたしも十四歳から十七歳までをブラジルで過ごしましたが、本当は 
 ナットウとかトウフとかタラコなんかのあっさりした和風が好きなんで
 す。朝めしはそういうおかずにごはんは一ぜんか二ぜん、昼はザルソバ二
 枚ぐらい。夕めしも肉を食べるのは週に一回か二回ぐらいです。レスラー
 には、羊一ぴき食べるなんていうのも実際いますし、わたしも昔は焼き肉
 二十五人前食っちゃったなんてこともありましたが、いまは、いつも腹七
 分目ぐらいに抑えています。
  地方に巡業に出ても、旅館のめしと、あとは自分で生野菜買ってきて、
 大皿に山盛りして食べるぐらいです。外国に行ったときは、うまい食べも
 の屋をさがすのが楽しみですが、国内の巡業は毎日試合があるから、とて
 もそんなヒマはありません。
  巡業が多くて、東京にいられるのは週一回ぐらいですが、必ず家でうち
 のやつの作るものを親子三人で食べています。酒飲むのがきらいで、外に
 出たいとも思わないし。
 
 冒頭から長々とした引用になったが、これは荒畑寒村でも案内した『わが家の夕めし』(朝日文庫)のアントニオ猪木家の紹介文である(昭和52年9月23日)。文中「うちのやつ」というのは女優倍賞美津子で長女の寛子ちゃんも一緒に写っている。
 メニューをみると、ブタの骨付きアバラのブラジル風 ハマグリのオリーブ油いため ブロッコリーのいため物 小芋・レンコン・シイタケ・インゲン・コンニャクの煮物 サラダ(サラダ菜、クレソン)。
 
 ブラジル、サンパウロへ
 アントニオ猪木は1943年2月22日に横浜市鶴見区で出生、本名は猪木完至かんじ。鹿児島県出水市出身の父親と熊本県人吉市出身の母親との11人兄弟の9番目として生まれる。その後5歳の時、政治家を目指した父親が急死し、実家は経済的困窮になる。13歳の時に貧困から脱出を期して、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。
 1960年4月、興行で当地を訪れた力道山から直接スカウトされ帰国し、ジャイアント馬場とともに日本プロレスに入団する。
 
 リングへの招待
 わたしは小学校の三、四年生あたりから高校の半ばまで、絵に描いたようなオタク生活を過ごした。
 明けても暮れても、ボクシングとプロレスの魔力にどっぷり浸かってしまった。昭和三十年代の半ばに全盛期を迎えたこれらの番組は、ほぼ毎日放映があり、テレビの前で絶叫する日が繰り返されていった。専門誌の発売が待ち遠しく、台風などで入荷が遅れたら、まさに気も狂わんばかりであった。
 今では、当のわたしも信じられないことだが、毎月WBA(世界ボクシング協会)とWBC(世界ボクシング評議会)二団体の世界ランキング表が巻末に掲載され、フライ級からヘビー級までの11階級のすべての選手名をチャンピオン以下1位から10位までランキング順にそらんじていた。レスラーも300~500名くらいの名前を軽く挙げることが出来たのだ。
 
『アントニオ猪木をさがして』
 昨年、新日本プロレス創立50周年企画で『アントニオ猪木をさがして』を劇場で観た。上映時間107分のドキュメンタリー映画である。
 冒頭はサンパウロ中央市場でトラックから青果物を荷降ろす猪木を目撃した日系二世の内間政次氏(89歳)のインタビュー。氏はいみじくも回顧する。「まるで映画のストーリーのようだ。ブラジルの市場で働いていた担ぎ屋の男が世界チャンピオンになったんだから。ファンタスティックとしか言いようがない」
 続いてサンパウロのコーヒー農園で移住の苦楽をともにした二歳年長の82歳男性の証言に移る。このあたりまでは上々の滑り出しで、思わず膝を乗り出して観てしまう。その後猪木の後輩レスラーである藤波辰爾たつみ、藤原嘉明、オカダ・カズチカ、棚橋弘至ひろしなどが在りし日の猪木の魅力を語っていく。猪木を50年間撮り続けたカメラマン、原悦生えっせいの証言も興味深い。原はあの人間山脈アンドレ・ザ・ジャイアントがキーロックを掛けられたまま猪木を頭の上まで持ち上げた驚愕の写真で一躍有名になった。
 しかしその後の展開は映画のタイトルにそむかのように混迷を深めていく。俳優のY田のゆるい進行やお笑い芸人のA田などが登場すると焦点が次第にぼけてきてフェードアウトしていく。極めつけは訳のわからない寸劇まがいなどが挿入されるとわたしの怒りはタイガー・ジェト・シンに額をサーベルで乱打され、流血まみれの猪木本人の心境になった。
 高倉健を追悼した『健さん』を観た人間として彼我ひがの映画の雲泥の差におもわず涙した。ちなみに『健さん』は第40回モントリオール世界映画祭にて、ワールド・ドキュメンタリー部門の最優秀作品賞を受賞している。
 
 「タレは一緒か?」
 2023年5月、NHKの人気番組「サラメシ」の「あの人が愛した昼メシ」にアントニオ猪木が紹介された。
 場所は東京、麻布十番の創業35年の焼肉店「一番館」。店内中央のテーブルが指定席。必ず注文した一品が特選和牛の骨付きカルビ。タレは醤油をベースにりんご、タマネギ、ニンニク、白ゴマ、コショウ。作り置きはせずに毎日フレッシュなものを使用する。
 猪木が初めて来店したのは15年ほど前のこと。以下女性店長の証言。
「来店というより登場という感じで、先頭を切って入っていらっしゃったんですよ。今でも忘れられない。花道のようで、まるでここが。ブルーのきれいなスーツと赤いネクタイと赤いマフラーを巻いて。入ってきていきなり『タレは一緒か?』私の顔を見ずに真っすぐ前を向いて」
 猪木はかつてこの近くにあった2号店の常連だったが、そこが閉店になったため、この1号店に来場?したのだった。
 仕事仲間との会合でも、家族と一緒の時でもオーダーするのはこのメニュー。骨付きカルビが焼き上がるまで、サイドメニューのサラダ菜に特性塩だれを絡めた韓国のムンチサラダ。いつも2人前を冷麺用の器に入れたものを氷水を飲みながら待ちわびた。そして少し焦げ付いた骨のまわりの肉をタレに唐辛子を山盛り2杯いれて堪能したという。
 
 アントニオ猪木のジャンバラヤ
 1986年、当時43歳の猪木はNHKの『きょうの料理 男の料理』にも登場した。メニューはジャンバラヤ(炊き込みご飯)である。この料理はアメリカ南部ニューオーリンズを中心に食べられているケイジャン料理の一種。基本は地元産の食材をふんだんに使った庶民的料理である。タマネギ、セロリ、ピーマンを炒め、チリペッパーなどの香辛料で味付けしたものがベースになっている。またケイジャンはザリガニ、アメリカアリゲーター、カエルといった土着の食材も多用される。
 カーペンターズがカバーして一躍有名になった『ジャンバラヤ』(1974年)の曲名はこの料理が由来となっていて、歌詞にはザリガニパイcrawfish pieも登場する。
 
 難病「全身性アミロイドーシス」
 2018年、参院議員として活動中の猪木に病魔が忍び寄る。厚生労働省指定の難病「全身性アミロイドーシス:トランスサイチレン型心アミロイドーシスである。日本の患者数は2,000人ほどと推定されている。
 猪木は「アントニオ猪木最後の闘魂」というYou Tubeチャンネルを開設し、闘病に向き合う自分の姿を動画で配信し始めた。
 現役時代の猪木を数多く実況した古舘伊知郎は、食事もできず、病院のベッドに横たわる猪木を何度も見舞った。そしてこう回顧する。
「猪木さんは死にゆく様を見せてくれた。最期まで、人を違うところを見せ続けた。猪木さんは『あでやかな見えっ張り』なんですよね。普通の人が弱みだと思うところも平気で見せる。脆さを見せることで逆に『いいや、弱くない』と思わせる。リバウンドを誘うんです」
 2022年10月1日燃える闘魂は79歳で没した。戒名「闘覚院機魂覚道居士」

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