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【書籍】民主主義とは何か② 第一章 民主主義の「誕生」

民主主義(デモクラシー democracy)という言葉が生まれたのは古代ギリシア。この語源はデモクラティアという言葉で、意味は「人々の力、支配」であった。これは、「人民や民衆」を意味するデーモスと、「力や支配」を意味するクラトスが結びついたもの。


アテナイ民主主義の発展

では、民主主義はいつ誕生したのか?都市国家アテナイで民主主義が確立したタイミングとして、紀元前508年が挙げられることがある。今から約2500年前のこと。これに先立つ紀元前510年には、僭主(非合法の手段によって政権を奪取し、独裁制を樹立した人物のこと)であったヒッピアスが追放されている。圧政者として君臨していたヒッピアスがいなくなることで、アテナイは転換期を迎えた。さらに、民主主義確立に向けて、指導者クレイステネスが登場。彼は一市民として民会*に提案を行い、様々な改革を行った。中でも、旧来の四部族に代わる十部族制の導入が注目されている。この十部族制の下でおかれた行政単位が「区(デーモス)」であり、「デモクラシー」という言葉はこのデーモスに由来する。旧来の四部族が血縁によるものだったのに対して、十部族制は地縁に基づくもので、これまでの血縁による権力集中を分解するものであった。具体的には、全国土を都市部、沿岸部、内陸部の3つに分け、それぞれがさらに10に区分けする。このうち、都市部、沿岸部、内陸部から1つずつを組み合わせたものが新たな部族となる。これにより、貴族たちの影響力を削ぎ、しがらみを断ち切り、人為的に組み合わされた新たな社会編成原理を導入した。この新部族制に基づく各部族50人の評議員から成る500人評議会の設置、陶片追放と合わせ、旧来の貴族政からの大きな脱却を図った。画期的であったのは、都市の中心部だけでなく農村部などにも改革の手を広げたことだ。これにより、幅広い市民が政治参画できるようになり、都市のいろいろな場所で市民による議論が交わされた。このように、古代ギリシアの民主主義は花開いていった。
しかし、プラトンやアリストテレスといった古代ギリシアの哲学者の多くは、民主主義の政治について批判的、懐疑的であった。にもかかわらず、一般市民においてはむしろ親近感を抱いていた。ペルシャ戦争での勝利は、市民たちに、自分たちの政治体制へ誇りを抱かせたことだろう。「自分たちは、1人の専制的支配者に隷従する政治体制の臣民ではない。平等な市民によって運営される自由で民主的なポリスの市民である。だからこそ、自らの国を自分たちの力で守る気概をもっているのだ。」このような思いをもった市民たちは、政治家や役人たちの公的責任も厳しく追及した。不正があれば裁判の場に引き出し、容赦なく批判の下に置いたのだ。このような「参加と責任のシステム」こそが、民主主義を支え続けたのだ。

デマゴーグ ポピュリズム政治の元祖

この時代の民主主義を誤った方向に導いた存在として、デマゴーグが挙げられる。現代のポピュリズムの元祖ともいえるだろう。自らの野心に従い、大げさな言葉や振る舞いで人々をひきつけ、民衆におもねったとされる。デマゴーグによって国策を誤った例として、シチリア遠征がある。民会の決定に応じてシチリアに大軍を送るが、あえなく大敗。その結果、アテナイは大混乱に陥る。なぜこのような結果を招いたのか。遠征を認めた民会の決定は正しかったのか。この背景に、当時の新興の指導者たちは戦争によって植民地を獲得し、財貨を得たいという利己的な野心から好戦主義へと傾斜していったことが挙げられる。これに対して、富裕層はむしろ戦争の費用負担を嫌い、平和を望んでいたが、デマゴーグに煽られた人々に押し切られて戦争を始めて、その結果大敗したという結末だ。

哲学者たちの民主主義批判

アリストテレスは政治的支配について、1人の支配、少数の支配、多数の支配に応じて、君主政、貴族政、民主政を区別した。さらに、それぞれの堕落形態があると論じ、僭主政、寡頭政、衆愚政を説明した。いずれの堕落も、統治する人間が公共の利益よりも、私的利益を優先することで生じると考えられた。アリストテレスの師プラトンは、さらに民主主義に対して批判的であった。その理由は、プラトンが敬愛していたソクラテスの死に起因する。ソクラテスは「無知の知(不知の知)」で知られる問答をアテナイで何度も行った結果、若者をそそのかし、伝統的な神々を否定したとして民衆裁判にかけられ、民主的な裁判の結果、死刑となる。
このように多数決が正しいとは限らない。ではどうすればよいか?政治をよくするには、1人1人の人間を道徳的にしていくしかない。政治家は自らが道徳的であるだけでなく、人々を道徳的に導くべきだ。これは現代でも同じことが言えるだろう。

民会:白亜のパルテノン神殿が見える丘で市民たちは戦争や外交を含むポリスの制作について代る代る演説をし、最終的に議案を採決にかけた。

(続く)

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