【臨床日記】憶測が事実を歪める
よく臨床の報告で「%」を多用して話す人がいる。
〇〇のパターンは概ね◯%ある。
全体の把握としてはもちろん有用で、例えば対象とする疾患の中で、原因別にその割合%を提示することで、何が一番影響が大きい傾向があるのかを把握することができる。
ただ、これは研究などの引いた視点なので、実際のクライアントさん、患者さんに関してはほぼ意味をなさない。
クライアントさんそのものは、自分だけが興味の対象なのでそれは100%だ。
他の人にどういう傾向があるかはどうでもいい。
自分がどうなって、なぜ不調があるかを知りたいのだ。
昔ある講座の質問で、傾向、つまり割合を聞かれたことがある。
データを取ってるものではなかったので、的確には回答できなかったが、僕自身は臨床家としてその%に重きは置いていないということは伝えた。
100%のクライアントさんとこちらも100%向き合いたいからだ。
頭の中で、〇〇さんとそっくりだとか、〇〇の経験と似てるからきっとこうだろうとかは極力考えないようにしている。
誰かとコミュニケーションをとっているときに、その目の前の人よりも、頭の中で誰々に似ているとか、今までの経験と照合しているようなものだ。
僕はそれはリアルなコミュニケーションではないと思っている。
目の前の方そのものを見たい。
頭の中で、過去と照合したくはない。
そのコミュニケーションが済んだ後に、照合することはあるかもしれないが、ライブの時間はその方そのものを見たい。
臨床もそうだと思っている。
頭の中をまっさらな状態にして、その方の状態をそのままコピーして脳内に描いていきたい。
これは脳内の感覚なので、言語化は難しいのだけれど、3Dスキャナーで取り込んだものをCAD-CAMで再現しているような感じだ。
そこで、客観的なデータを入手して、そこで現在起こっている状態をできるだけ忠実に再現する。
そして不調の原因のメカニズムを探っていく。
これが予防運動療法を行なっている脳内の過程である。
憶測やきっとこうだという推測は、事実を歪める。
そういう経験をなん度もしてきた反省から、まっさらな状態でそのままをコピーすることに重きを置いている。
セラピストは、経験を積んでくるとどうしても過去と照合して効率化を狙いたくなる。
僕もそうだったが、伸びた鼻をへし折られたことが何度もある。
客観性とは、主観を極力入れないことであり、評価の場合の主観は憶測だ。
いつの日か、外郭は3Dで、内骨格は被曝の少ないCTなどで全てを把握できるという時が来たら、予防運動は飛躍的に変わるだろうと思う。
今は触診に頼らざるを得ないが、やっていることは科学のつもりだ。
今は4DCTも存在する。
検査機器の発展は医療を激変させる。
自分の生きている間に、そうのようなデバイスや検査機器の発展と、予防運動で行っているコンセプトが融合して、医療にイノベーションが起こせたら幸せだなと思う今日この頃である。