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「好意」と「行為」を分けて受け取る
「ありがた迷惑」という言葉があります。
他人の気づかいや親切な行為が迷惑に感じられることを言いますが、
心に余裕のない人ほど、ありがたい気持ちよりも、迷惑に思う気持ちを強く感じてしまいがちですね。
ありがた迷惑とは、「好意」は嬉しいが「行為」は嬉しくない、ということなので、
私の場合は、「行為」が嬉しくなくても、「好意」にフォーカスして、感謝を伝えるようにしています。
そのほうが、自分の気分が良くなるし、相手の気分も良くなるからです。
それに、感謝をすることはメンタルヘルスにも良い、と言われています。
気づかいや親切というのは、他者のために行うものですが、それは一種の賭けと言えます。
なぜなら、他人の気持ちは分からないからです。
丁寧な人だったら、「どうして欲しいか?」を相手に確認して、相手のためになることをしてあげようとするかもしれませんが、
そのようにしたとしても、そこで相手が本音を言うかどうかは分かりません。
気を遣って本音を言わないこともありますし、恥ずかしくて本音が言えないこともあります。
それに、何が本当にためになるのかを、本人自身が分かっていない、ということもあります。
ですから、必ず感謝される気遣いや親切な行為というものはなく、それらは常に賭けであり、失敗して疎まれるリスクもある、ということです。
そういうリスクを冒してまで、親切な行為をしてくれる人というのは、やはりありがたい存在だと私は思っています。
自分のことしか考えない人だったら、嫌われることを恐れて、何もしないことを選択するでしょう。
ですが、他人から「当たり」の親切だけを求め、自分は「ハズレ」のリスクを避ける、という考え方だと、
いざという時に助け合い、協力し合う関係を築くのが難しくなると思います。
多少のハズレは受け止め合い、好意に感謝し合う関係を築くのが良いのではないでしょうか?
感謝をすることは、自分のメンタルにとっては良いことなので、そういう機会を、自分を良い気分にさせるキッカケに使うと良いと思います。
その上で、不要な気づかいや親切については、「気持ちは有難いけど不要だ」と、きちんと伝えることも大切なことですね。