第2回 北条氏の台頭と執権政治 その3
ⅲ)執権政治
幕府を主導していた義時は承久の乱の後、1224(元仁元)年に亡くなり、その後を子の泰時が継いだ。泰時は執権の補佐役として連署を創設し、叔父の時房をこれにあてた。さらに幕府の最高意思決定機関として評定を設け、11人の評定衆を設置した。彼らは執権や連署と共に重要政務の議論や訴訟の裁決に携わった。
また泰時は1232(貞永元)年に武家の基本法典として御成敗式目を制定した。これは当時の元号から貞永式目とも呼ばれている。式目の式は式条、目は目録、成敗とは理非を裁決するという意味で、裁判の規範を示す内容であったことからこの名前がつけられた。教養のない武士でも理解ができるように平易な文章で書かれており、内容はとても簡潔なものとなっている。これらの基準となったのは頼朝時代以来の先例と道理であり、幕府は数多存在するそれらの中から、最も適当であると判断したものを選択し、法文化した。
しかしこの御成敗式目が適用される範囲は、幕府の勢力範囲に限定されていた。幕府は決して朝廷や荘園領主のもつ規範を否定しようとはせず、そのため朝廷の支配下では律令の流れを汲む公家法が、荘園領主の支配下ではその地独自の本所法が、それぞれ効力を持っていた。
御成敗式目が発布された後、必要に応じてたびたびこの規定を改正、補足する法令が出された。これらは式目追加や追加法と呼ばれ、鎌倉時代を通じて600条余りが制定された。しかしこれらの多くは個別の事件に対応して作られたもので、一般民衆の目に触れる機会は少なかった。
泰時の後に執権政治をより発展させたのは、孫の時頼である。彼は裁判制度の拡充のために引付衆を置いて、評定衆の補佐、文書の審理と訴訟の採決にあたらせた。時頼はまた北条本家である得宗家に権力を集中させた。1246(寛元4)年には執権の座を奪取しようと企てていた北条一族の名越家勢力を鎌倉から一掃した。また1247(宝治元)年には宝治合戦を起こし、北条家と並ぶ有力御家人であった三浦泰村を滅ぼした。1252(建長4)年には北条氏討伐の陰謀に加担したとして頼経の子であった将軍頼嗣を廃し、新将軍として後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王を京都から迎えた。以後将軍職は4代にわたり親王によって受け継がれ、これは皇族(親王)将軍と呼ばれた。