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第3回 蒙古襲来と幕府の衰退 その2

ⅱ)蒙古襲来  モンゴル一部族の長として生まれたテムジンは、諸部像を統一して帝位につき、チンギス=ハーンを称した。彼の指揮のもとでユーラシア大陸にまたがるモンゴル帝国が完成し、彼の孫にあたるフビライ=ハーンは国号を元と改めた。フビライは南宋の征服を進め、さらに東南アジアや高麗らも支配下に置き、ついには日本征服を計画するに至った。 当時の鎌倉では北条時宗が執権となり、元への対応を指揮していた。元はたびたび日本に国書を送り朝貢を要求したが幕府はそれを黙殺し、九州の御家人たちに

    • 第3回 蒙古襲来と幕府の衰退 その1

      ⅰ)東アジアの変容 10世紀ごろから中国北方では遊牧民の活動が活発化した。東部内蒙古では契丹がおこって遼を建て、次いで満州では女真族が金を建国し、さらにその後にはモンゴル帝国が誕生した。彼らは優秀な製鉄技術と騎兵によって急速に勢力を拡大していった。 金は遼を滅ぼすと、その後南下して宋の都であった開封を占領した。宋はその後江南へと移り、南宋をたてた。平清盛が交易を行ったのは、この南宋である。日本は金・水銀・硫黄・木材・米・刀剣・漆器・扇などを輸出し、唐物と呼ばれた、陶磁器・

      • 第2回 北条氏の台頭と執権政治 その3

        ⅲ)執権政治  幕府を主導していた義時は承久の乱の後、1224(元仁元)年に亡くなり、その後を子の泰時が継いだ。泰時は執権の補佐役として連署を創設し、叔父の時房をこれにあてた。さらに幕府の最高意思決定機関として評定を設け、11人の評定衆を設置した。彼らは執権や連署と共に重要政務の議論や訴訟の裁決に携わった。 また泰時は1232(貞永元)年に武家の基本法典として御成敗式目を制定した。これは当時の元号から貞永式目とも呼ばれている。式目の式は式条、目は目録、成敗とは理非を裁決す

        • 第2回 北条氏の台頭と執権政治 その2 

          ⅱ)承久の乱  武士勢力が各地で伸長すると、公家の経済的基盤であった荘園が地頭によって侵され、公家たちは危機感を増大させた。  朝廷では成人した後鳥羽上皇が後白河法皇の後継者として権力を握った。後鳥羽上皇は八条院領や長講堂領などの天皇家領を手中に収め、これらを恩賞として新たな朝廷の軍事力を編成していった。西国の武士や御家人の一部は西面の武士に任じられ、大寺社との戦闘などに従事した。 上皇は源実朝を通じて鎌倉幕府に対して影響力を行使しようとした。上皇は実朝に破格の官位を与

          第2回 北条氏の台頭と執権政治 その1

          頼朝は1199(正治元)年の正月に53歳で死去した。落馬が原因とされているが詳しい死因はわかっていない。この後を継いだのは、頼朝の嫡子であった源頼家であった。頼家は頼朝同様、将軍専制政治を展開しようとした。これに反発したのは、頼朝以来の御家人たちである。彼らは若輩の頼家が強大な権力を握ることを歓迎しなかった。頼朝の死後3ヶ月後、北条時政らは頼家から訴訟の判決権を取り上げて頼家の専制を抑え、御家人の代表者13人からなる13人の合議制を開始した。 この中心となったのは頼朝の妻、

          第2回 北条氏の台頭と執権政治 その1

          第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立 その3

          ⅲ)幕府と御家人  頼朝が勢力を拡大すると、全国の武士たちは進んでその従者となった。将軍と直接の主従関係を結んだ彼らは、特に御家人と呼ばれた。頼朝は御家人を地頭などに任命し、彼らの所領支配を保障した。これは本領安堵と呼ばれ、頼朝から御家人に与えられる御恩であった。また御家人が大きな功績を挙げた際には、新たな領地が与えられた。これは新恩給与と呼ばれ、これもまた、御恩の一つであった。 御恩を受けた御家人は、その対価として将軍に奉公をした。戦時において彼らは将軍のために命をかけ

          第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立 その3

          第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立 その2

          ⅱ)幕府の成立 頼朝は東海道の要衝である鎌倉で、新政権の樹立に努めた。頼朝は富士川の戦いの後侍所を設け、別当には和田義盛を任命し、御家人の統率にあたらせた。1184(元暦元)年には公文所と問注所を設け、公文所はさらに整備され政所となった。政所の長官には、朝廷の下級官吏であった大江広元が任じられ、一般政務を取り仕切った。また公文所の長官である執事には同じく下級官吏の三善康信が任命され、裁判などを担当した。 頼朝は関東の荘園や公領の支配を広げていき、御家人たちの所領支配を保障

          第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立 その2

          第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立 その1

          第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立 こんにちは。今回から日本史の鎌倉時代について解説していきます。 対象としては日本史を選択している高校生や、学び直しをしたい大学生、社会人、少し背伸びをしたい中学生を考えています。ぜひ最後まで読んでください。 ⅰ) 源平の争乱 平清盛は後白河法皇を幽閉し、平氏による専制的な支配体制を確立していた。しかし地方武士などはこの体制に反発し、一般に源平合戦と呼ばれる、治承・寿永の乱が始まることとなった。 この契機となったのは、以仁王による挙兵で

          第1回 源平合戦と鎌倉幕府の成立 その1