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考え過ぎは良くないって本当なのかな?

こんにちは。
関西は薄ぼんやりと明るいグレイッシュブルーの空が広がっています。
調子はいかがですか?
私は、今日は狂ったように本を読みたい日なので、表題の疑問を呈して、早めにお暇いたしますね。

さて、よく言われませんか。
「考え過ぎは良くないよ」
って。
どういうシチュエーションで?
そうだな、例えば…。
職場の人にキャリア相談をしたとき。
友人に恋愛相談をしたとき。
家族に抱えている不安について相談したとき。

え、そんなこと言われたことないって?
いつもみんな真摯に相談に乗ってくれるし、適切なアドバイスをくれる?
おめでとう、あなたは恵まれた幸せな方だ。
私の繰り言に付き合わず、どうか幸せな1日を過ごして欲しい。

さて、そうではない他の衆。
少しだけ私の話を聞いてはくれまいか。
私自身は、
「考え過ぎはよくない」
って、その会話を打ち切りたいときの適当な相槌の一種だと思っています。

そういう助言めいた言葉を吐いたあとで、彼或いは彼女はいそいそと自分の話をし始めませんか?
そして優しいあなたは、モヤモヤを抱えたまま相手の話を真摯に聞いてあげていることでしょう。

そういう文脈の中で使用される時の「考え過ぎはよくない」という言葉の真の意味は「めんどくさいことを言うな。でも私の話は聞け」なのです。

多くの人間は大抵(例外はいつだってあります)他人の話、とりわけ自慢話と愚痴と悩みを聞くのが大嫌い。
そして、自分の話は盛大にしたいもの。
これは人間の本能に近い部分だと勝手に思っているのでどうしようもありません。
当代きっての聞き上手と評判の私が言うのですから間違いありません。
いつでも話聞くよ~の罠にまんまとハマってはいけません。
それは「俺の話を聞いてくれ」の裏返し(笑)
なんと巧妙な手口…。
そういう私も、散々大事な友人や家族にやらかしています。
猛省します。

で、ここまではちょっと毒のある笑い話、くらいに受け取って欲しい。
みんなお互い様だし、なんだかんだそういう相互のコミュニケーションで人間社会成り立っている部分も大いにあるのだから。
相手のことを利用し過ぎ、感情のごみ箱にし過ぎ、聴いてあげ過ぎはあんまりお互いにとって良くないんじゃないかなってだけの話です。
適度な距離感、たいせつ。
それに、きっと、本当に本当に悩んでいることは、皆さん専門家や心から信頼できる相手にしか相談しないよね。

この記事で問題にしたいのは、
相談した相手が本当に、あなたの抱えている問題について
「考え過ぎなのでは!?」
本気で心配しているっぽい場合、或いは本気で馬鹿にしている場合のことです。

悲しい哉、この場合の文脈で発せられる「考え過ぎるな」は
「思考停止しろ。(私の)都合のいいように動け」
とほぼ同義です。

でも、その相談相手は、賭けてもいいけど、絶対にあなたの人生に責任をとってはくれません。

どうも、今の主流は「主語が大きい奴は信用ならん」ということになっとるらしい。
事と場合によっては、私もそう思う。
逆張りをして妙なマウントを取りたいわけでもない。

でも、ちょっと身の回りを、世間を、見渡した時に
私は圧倒的な違和感を感じる。

考えなさ過ぎたことで、問題を先送りにし過ぎたことで、
世界中に「分断」と「貧困」が蔓延していると感じる。

ひとりひとりの命がけの頑張りが虚しく浪費されていく現実。
真に優れた商品が「口コミ」だけで消費の対象としての機能しか持たなくなる哀しみ。
「自分だけは疫病に罹患しない」という根拠なき自分勝手さがもたらす蔓延。
仕事の為の仕事という方法と目的が入れ替わる不思議な現象。
自分より立場の下の者にはハラスメントをしていいと本気で思っている人間の存在。

そのどれもが、ひとりひとりの小さな「考えなさ過ぎ」から起因しているのだと思わざるを得ない。

不寛容と自分さえ…の連鎖。
私自身の言葉で言い換えれば、

圧倒的に優しくない。

ということに尽きます。

もちろん、考えてもどうしようもないことはいくらでもある。
それは、今更、私がここで具体例を挙げるまでもなく、皆さんが一番お分かりだと思う。

でも、変えられること、変えられる可能性のあることまで「考えない」っておかしくないですか。


私は信じているのですが、
どうしてもあなたの頭から離れてくれない、しかも解決方法があるんじゃないかという予感がある場合。
考え過ぎてしまうそのこと自体を容易に「異常」だと決めつけないで欲しい。
自分の性格に問題があるのではないかとくよくよしないで欲しい。
いや、くよくよしてもいいけど、お腹の底の底の方でぐっと自分への信頼を崩さないように踏ん張って欲しい。

なぜって、私はその言葉自身の余りにも形骸化した空虚さが大嫌いだから。
強い言葉だったらごめんなさい。
でも、

「考え過ぎ」がよくないのではなくて
「考えなさ過ぎ」がよくないのだと私は思っています。

中途半端なところで、思考をストップすると、もっとひどいしっぺ返しがくると私は実感していて。
例えば私の例。
『人間関係』
・違和感ばかり感じていたのに、その場その場のノリに流されて、人間関係の整理が出来なかったこと→私にとってもっともっと大事にしなければいけない人は他にいたのに、という後悔。時間は戻りません。
『進路』
・本気で勉強したかった学問を諦め、進んだ学部が自分に合ってるのだと自分自身の気持ちを曲げて誤魔化した。→お金を親に出してもらっている限りは、なんの自由もないのだと、もっと早くに気付くべきだった。それか、死ぬ気で親を説得するべきだった。自分にはその価値ないと決めつけたことで一生後悔することになった。しかし、今からでも独学は出来る。私は諦めません。過去の自分に屈するわけにはいきません。
『どう生きるか』
・これは、私のこれからの一生の課題で、ここを考えることをストップすることは、もう一生ありません。何者になるか、それはもうどうでもいい。
日々、やるべきことを積み上げるのみ。
でも、これからの人生を自分がどう生きたいか考え続けることが、私にとっては生きることそのものだと気付いたから、私はそれをやめないだろう。
死ぬときに何を遺せるか、それが見ものだな、と思っています。

何か悩みを抱えている人がいたら、どうか勇気を持ってほしい。
考えなくていいという無責任な言葉に宜わないで欲しい。
どんな結果になろうと、頭を掻きむしって、おかしくなるほど考え尽くしたことは、必ずあなたの糧になります。

情報は大事ですが、情報は所詮、あなたが考えるための材料に過ぎません。
ましてやフェイクニュースが飛び交う世の中です。
ネットで玉石混交の情報を漁るくらいなら、岩波でも筑摩でも中公でも、課題について書かれている新書を1冊読み通すことの方がはるかに意味があり、武器になります。
何度も言います。
他人は、絶対にあなたの人生に責任をとれません。
親であっても子であってもパートナーであっても。

緊急事態宣言がまた出されるようですね。

閉塞感、先の見えない不安。
まるで世界中が濃い霧のなかを、よろよろと手探りで彷徨っているような状況です。

しかし、だからこそ、私は個人ができることもあると信じたい。

「自分の頭で考え尽くすこと」「考えるための武器を手にすること」「主体的に生きること」

偉そうなことをいろいろ書いたけど、私自身出来ていないことばかりです。
どうか一緒に頑張りましょう。

ほんの少しでも、優しくてきれいな場所を増やしていきましょう。

•ө•)♡ありがとうございます٩(♡ε♡ )۶