能登地震やガザ地区の現状を考えたら、『民度』=『私たちの範疇の広さ』と気付いた話
能登地震…良くいく場所なので本当にショック!!心から応援してる!!って考えながらテレビ見てた。その中にちょっと違和感を感じて…
アナ:支援物資はどうですか??
住民:本当にありがたいことに水も食料も子供や孫が持ってきてくれました
アナ:それは良かったですね
住民:金沢や富山だけじゃなく千葉からも本当にありがたい…(涙)
住民:テレビで来るなって言っているのに来てくれるなんて(涙涙)
住民:田舎の子たちは本当に優しいんです(涙涙涙)
ここでインタビューは終わった…
確かに優しくて良い子たちなのだろう
でも…住民と子供・孫たちが考えている優しさの範囲
自分にとって大切な故郷の集落、顔を知っている家族とその家族の人間関係が届く範囲のみへの優しさ。能登全体のことは範疇外。自分が行くことによって、もしかすると自分の知らない誰かの救助が遅れて取り返しのつかないことが起きる。そのことについての配慮がない。というより考えられない。
これが違和感。その場に立ったら、私も多分同じ感覚…でも俯瞰すると「それって…」って感じ。
これって『私たち』の範囲なんだと思う。『私たち』をどこまでの範囲で考えられるか。『仲間』『家族』『地域』『国』『世界』人として生きていくうえでこのくらいまでは『私たち』でありたいって私は思う。もし、人以外までも『私たち』って思えれば聖者???
ニュースでイスラエル人がインタビューを受けていた。「私たちの仲間を殺そうとするパレスチナ人を攻撃することは我々の権利でもある」私たちの仲間=イスラエルという国家から比護される人々=イスラエルを支配するユダヤ人が『私たち』の範囲。その範囲で考えると当然パレスチナ人は悪で道徳の加護を受ける範疇外。
悪い人間であろうとする人ってそうそういない。さっきの能登地震の被害者も良い人。パレスチナへの攻撃を支持する市民も良い人。ただし、家族に対して良い人や、イスラエル人に対する良い人という範囲の中での話。
良い人かどうかを図るのは道徳。でも、道徳も一元的ではない。道徳のレベルを『民度』と言ったりもするけど…
ということで結論。『民度が高い』=『道徳レベルが高い』=『私たちの範疇が広い』って感じかなぁ???