だから、私は『学び合い』なんです
今まで、長々と
学校では時として、勉強をしない、努力をしない子が”得”をしてしまう構造が生じていること
そういう構造を作っているのは、基本的に教員であること(というか、教員以外には無理だろう。)
それらの具体例
を書いてきた。いよいよ、そういう構造の壊し方について書いていきたい。
の前に、これを読んでいただくと、話が速いだろう。
ここで書かれている「地方から来た妙齢を少し過ぎた女性たち」(西川先生の表現から変えています。)というのは、言わば「集団への所属意識の無い少数の異端者」ということだ。異端者は、周囲を配慮しないから、大声を出す。
逆に、周囲の大多数は「あの人達は仲間ではない」と思っている。だから、その声を煩く感じるのだ。
(また余計なことを書きたくなったので、それは次回に書くことにする。)
電車の乗客という、一過性の集団であれば、「煩いなあ」で終わっても仕方ないだろう。
しかし、教室の学習集団がそれでは悲しい。そして、その関係が攻撃性を生み、教員が対応を誤ると差別構造が生じるのだ。
じゃあ、教員はどうすれば良いだろう。
大多数が満足すれば、異端者を排除して良いわけではない。
異端者に配慮し過ぎて大多数を不快にしてもいけない。
そして、異端者も、大多数も、どちらも満足できるように”してあげる”のでもない。
異端者は本来、異端者ではなく仲間なのだ。仲間として折り合いをつけた関わりができるようになれば、お互いに配慮し合えるようになるのである。
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