中江兆民とニーチェ

中江兆民とニーチェについて大学時代書いたレポートです。自由意志とかイデアとか道徳とかの話です。勢いで書いたところがありますので諸々おかしいところがあります。


はじめに
本講義ではフイエ、中江兆民の様々な思想家の解釈について学んだ。とくにフイエはソクラテスとプラトンの論文で道徳科学アカデミー賞をとって評価されたということで、今回はプラトンについてのフイエの解釈と他の思想家の解釈の相違について考察していきたいと考え、竹田青嗣『プラトン入門』ちくま文庫、1999年(1)を読んでいたら、ニーチェのプラトン批判が目についた。ニーチェは恋(エロース)についての解釈についてプラトンを批判するが、そこを突き詰めていくと自由意志についてのプラトン、フイエ、兆民、ニーチェのそれぞれの立場の違いが浮き彫りになるのではないかと考えた。そこで(1)の本と、講義のレジュメ、さらにニーチェについての文献を使用し、比較することを試みる。



フイエは、プラトンの善、愛、道徳などがすべて「善のイデア」に集約され、人間はそれに向かって自然に惹きつけられる、必然的なものである、つまり「自由意志」がなく、「決断」の自由が存在し得ないとする思想に向かっている点についてプラトンを批判した。善のイデアの観念は目的論的な思想の一貫性としては優れているが、それはあまりに絶対的なものであり自由意志を否定するものである。兆民は自由と道徳の関係性において、人間が道徳的な主体になりうるための自由意志の不可欠性を主張する。自由意志があった上で、あえて善を行うことに意味があり、悪に隷属せず善を行うことが、自由である。このような自由概念を提唱したのがルソー、カントであり、兆民はそれを自ら解釈し、思想の根幹とした。つまりフイエ、及び中江兆民は自由意志の存在を肯定しているものといえる。
ニーチェはニヒリズムを提唱した哲学者であり、万人共通の、時間や場所を超越した絶対的なものを認めない、イデア論を否定する立場にある。プラトンの著書『饗宴』で唱えられるエロース論について、彼が唱える「美のイデア」と「善のイデア」は真理を媒介とし、エロースの意味は、究極的には「美のイデア」についての真なる知を知りうることで、それは「真理」なしでは存在し得えないものとされ、「美」は「善」に対する従属するものであるとしている。これに対して、ニーチェは『権力への意志』で「恋の最終目的はエロス的陶酔それ自体、およびそれが喚起する生の意欲の充実それ自体にある」、と批判した。2すなわちプラトンは恋(エロース)の究極の目的は善のイデアにあると考えるが、ニーチェは恋(エロース)はそれ自体に価値があり、独立したものであると唱えている。つまりここからいえるのは、プラトンの善のイデアを絶対とする思想体系を具体的にニーチェは否定したということである。その点においてはフイエ及び兆民と同じ立場に立っているといえる。
しかし、ニーチェは自由意志においては、『善悪の彼岸』においてこういっている。




《自己原因》は、これまでに考え出されたもののうちで最も甚だしい自己矛盾であり、一種の論理的な強姦であり、不自然である。しかし人間の常軌を逸した誇負は、事もあろうにこのノンセンスに深く恐るべく巻き込まれてしまった。遺憾ながらなお依然としてなお半可通の人々の頭を支配しているあの形而上学的な最上級の意味における「意志の自由」への要望、自己の行為そのものに対する全体的かつ究極的な責任を負い、また神・世界・祖先・偶然・社会をその責任から放免しようとする要望、けだしこのような要望は、まさにあの《自己原因》であろうとする以外の何ものでもなく、ミュンヒハウゼンそこのけの無鉄砲さをもって、虚無の泥沼からわれとわが身の髪の毛を掴んで助け出そうとするのと同じである。3


ここでいわれている「自己原因」への批判は、自由意志に対する強い否定、忌避感を示していると考えられる。つまり、ニーチェ、フイエ、兆民はプラトンの「善のイデア」の絶対性についてそれぞれ同じく批判しているが、自由意志については全く異なる、逆の立場をとっているといえる。また、先述したように兆民は自由意思を根拠とした道徳論を述べている。
そして、ニーチェの道徳についての考察はこうである。4

道徳性とは、個々人における群畜的本能のことである。

(『悦ばしき知識』)


道徳は出来損ないの者どもが、ニヒリズムにおちいらないようにふせぐが、それは、道徳が、各人に無限の価値を、形而上学的価値をあたえ、この世の権力や階序のそれとはそぐわない或る秩序のうちへと組み入れることによってである。
倫理学、すなわち「願望の哲学」。――「異なったものであるべきであるのに」、「異なったものとなるべきであるのに」、それゆえ不満足が倫理学の萌芽である。

(『権力への意志』)


ニーチェは「道徳」それ自体を完全に否定しているとはいえないが、人間の持っているルサンチマンによって、それは非常に危険な状況を生むことを示唆している。私はこの道徳に対しての態度の違いは、ニーチェとフイエ、兆民による「自由意志」の捉え方のちがいだけでは説明できないのはもちろんだが、関連性について考察することはできると考える。ニーチェはペシミストであるショーペンハウアーに大きく影響を受けた思想家であり、「生」それ自体を苦痛なものとして捉えている。兆民の思想においてはそのような点においては、「性善説」の立場をとっているルソーに大きく影響を受けているところで異なっているように思われる。



おわりに
本レポートではプラトンを媒介として、主にフイエ、兆民、ニーチェについての自由意志論、道徳観についての比較を試みた。「自由意志」、「道徳」、「善のイデア」、これらについて偉大な思想家について比較するのは自分の手に余ると思ったが、様々な文献を通してこのレポートを作成するにあたり、自分にとってはよい学びの契機になったと思う。とくに、ニーチェの思想は非常に難解なもので、今まであまり触れていなかったというのもあり、表面的な指摘に留まったのが今後の課題である。



1 レジュメから引用。
2 参考 竹田青嗣『プラトン入門』ちくま新書、1999
3 木場深定訳『善悪の彼岸』より引用。
4 以下、2同書102~103ページより引用。

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