BOBBY、価値のない命たち
今、一人で約700頭の子牛の世話をしている。
と言ってもそのうちの400頭は生後4日でお肉になってしまう。
お肉になってしまう400頭は、生まれてから4日目までお世話し、屠殺場行きのトラックを予約する。までが一通りだ。
3ヶ月で終わる出産シーズンの中、うちの牧場から毎日約10頭〜20頭ずつ殺されていく。
彼らは生まれてくる価値がなかったのだ。
考えてみてほしい。
母親の母乳(牛乳)を出すためには、子牛を産ませる必要がある。
だが今みたいに、牛肉の価値よりミルクの価値や消費量が多いときは、母牛のミルクだけ必要で、生まれてきた子牛はいらないのだ。
かつてはいらない子牛たちを石や棒で殴り殺していたひどい牧場もあったのだが、それを阻止するために、余った命たちを法律に従って排除するために出来上がったのがBobby Calfというシステム。
”せめて、動物愛護法を守り、安らかに死を、その死を無駄にならないようにお肉にしてあげましょう。”
そんなのだからBobby一頭の子牛の価値は、約1ドル(日本円で約90円)に満たないものが多い。
牧場にとってもなんの価値も生み出さず、ほとんどはトラックの運送費で消えてしまうらしい。
それどころか、彼らを世話する手間がかかるため『お荷物』と比喩するところもある。
このシステムはニュージーランドに限らず世界各国にある。
日本では、余った子牛は肉にもならず、殺されて消えていくらしい。
これからはbobby達を世話した日記の一部を記します。
長くなりますが読んでくれると、とても嬉しいです。
7月12日。
朝7:30、いつも通り出勤し、一番若い子牛の様子を見にいくと、一頭がぐったりしている。
昨晩、雨の中母牛に見捨てられ、泥沼に放置されたのだろう。毛皮はぬれ、手足は凍るように冷たい。
痛み、何かを訴えるように叫ぶ声が、痛々しい。
ボスが来て「早朝に牧草地から引き上げたんだけど、彼は多分、生きれないだろう」とだけいうと、いつも通り業務連絡をした。
私は泣きたいのを抑えながら、すぐに温かいミルクを用意して、彼の胃に直接流し込んだ。
8時にトラックが来て、それまでに違う子にミルクをあげないと、トラックの中で辛いだろう、なんて頭の片隅では考えながらも、必死に彼の体を温め、日向に運んだ。
私が早く来てたらな、なんて考えながら彼を抱きしめ一人で「ごめん」と言う。
彼は強かった。
毎回見にいくたびに、死んでいるのを覚悟していたけれど、毎回ぐったりしながらも、ちゃんと息をする。そしていつも通り叫ぶ。
1日目の夜には、ボトルからミルクを自分で飲んだ。死にかけ、絶望の彼が、ミルクを二口飲んだだけで、私は嬉しくて、彼と一緒に叫んだ。
「本当に強いな、お前は。私も諦めないから、諦めないで。」それでまた足りない分のミルクを胃に流し込む。
7月13日 朝
気温が全然上がらない朝だったけれど、彼は凍えながらもまたちゃんと生きてた。
驚くことに立とうとした形跡があった。
彼のそばにいくと、死んだように冷たい手足をダラーんとさせながらも、弱々しく私の指を吸った。
「ごめん、他にやらなきゃいけないことがあるから、また戻ってくるから、」と誰も聞いちゃいないのに、祈るように彼にいった。
他にも200頭以上、面倒を見なければいけない子がいる。
7月13日 午後
彼は立った。
私が後ろ足を抑えていたけれど、プルプル震えながらもしっかり立ち、あたりを見回した。
たったままミルクを飲んで欲しかったけれど、5秒が凍った足には限界だった。
約30kgの彼の体を支える私の両腕もやがて限界だったけれど、その5秒の出来事がどうしても嬉しくて、私はボスに言いに走った。
「あの死にそうな彼、生きてるよ、立ってるよ!」
ボスは「彼のために頑張ってくれてありがとう、よかった、撃ち殺す時間なかったから」と言った
ボスにとっては0ドルの彼をそこまで時間をかけてケアする利益はない。私の時給が30ドルで彼に30分時間をかけたらもちろん赤字だ。
忙しい出産シーズン、毎日30頭生まれる中、生き残る子たち、いわば価値あるものに、もっと時間をかけた方が圧倒的に効率的だ。
ほとんどの牧場では、利益がないbobbyは素早くやって欲しがるのだが、私のボスは私にやりたいことをやらせてくれる。
7月20日
彼の回復は驚くほど早かった。本当に強い子牛だった。
1週間経つ頃には、みんなと同じようにミルクを飲み、しっかりとした足取りで走り回った。
そして、彼は、通常のBobbyより遅い生後1週間で、元気にトラックに乗っていった。殺されてお肉になるために。
彼が運ばれてきた時は救うのに必死で考えていなかったけれど、ハッとして、ちゃんと考えたら、ずーっと堪えてた涙が止まらなくなった。
私は彼を殺すために、彼を必死に生かしていたのだ。
そんなんだったら、1日目に死んでしまった方が良かったのじゃないか。
生かすために殺し、殺すために生かす。何度も考えた、彼の幸せはなんだったんだろう、
何度も何度も彼の顔が思い浮かび、いても立ってもいられなくなった。
手当たり次第、片っ端から連絡した。
3年牧場で働いた人脈としてはそこまで多くなかったけれど、
土地を持っていて、大きな動物を扱える人。
牛肉を育てている人(普通の牛肉だと2年は生きれる)
大動物獣医。
「うちの牧場は土地が無くて飼えないんだけど、bobbyですごく大きくて元気な子たちがいるんだ」
だけれども、
馬や羊を飼っている人でも、牛はペットとして育てるのが極めて難しく危険。
牛肉牧場でも、肉牛の価値がどんどん下がっていて、買い取れるけれど、数年後に破綻してしまうかもしれない。
どれもこれも、納得する理由に項垂れる日々。
自分の無力さに、吐き気がさした。
みんな口を揃えて「でも聞いてくれてありがとう、そのチャンスにかけて電話してきてくれた勇気がすごいよ、救おうとしている君は優しいね。」と言ってくれた。
それでも無理だった。そうしてる間にも毎日10頭生まれては、価値がないと言われ、いなくなっていく。
やめたかった、自分が毎日壊れてくのが見えた。
過去三年間は大きい牧場だったし、必ず誰かが一緒にいた。
今回は全て自分だ、自分の責任だ、約700頭の命を背負う、
400頭は価値がないと言われ、すぐ死んでいくのを頭でわかりながら、毎日私が必死に生かす。意味もわからないまま。
「価値がないから」という理由で、目の前にいる美しい生き物たちをトラックに載せる時には、いつも「私が乗った方がマシ」と考えた。
今まで会ってきた意地悪な人たちよりも、この子牛たちの方がよっぽど価値がある。なんて意地悪に考えたりもした。
それでも人間の身勝手で殺されていく命達にどうしても申し訳なくて、訳もわからず必死にbobbyを世話した。
9月1日
いつも通り、次の日のトラックに乗せる子牛たちに、耳標をつけていると、一頭が足を引きずっている。
動物愛護法で、傷ついた家畜を移送することは禁止されているため、彼女の足が治るまでは生かしておける。
微かに「よかった。」と思っている自分がいた。
足が折れてないといいけど、なんて心配をよそに彼女はミルクを飲み終え、嬉しそうに駆け回った。
9月2日
彼女の足をチェックする。折れてはいない。でもまだ引きずっている。安心。
「2日間、私はお休みだから、その間生き残れよ。」
足が治ればトラックに入れられるし、足が折れていたら治る見込みがないとされ銃で撃ち殺される。
私が休みの間、世話をするボスにどうにかされないようにちょうどいい引きずりでいることを願う。
9月6日
彼女は死んだ目をした私に、喜びをくれた。
小さい体、傷ついた足をしながら、誰よりも嬉しそうに、力強くミルクを飲む。
飲み終えると、私の方にやってきては、私の足に頭をくっつる。
撫でてあげると、嬉しそうに周りをぐるぐる走り回る。
くっつきむしで、いつも楽しそうで、主張は強いけれど、自分が飲み終えたらちゃんと違う子にスペースを譲ってあげるような、優しくて賢い子だった。
自分に一生懸命制御をかけようとしたけれど、気づいたら彼女に会うのが楽しみになってた。
9月11日
彼女の足は、とっくのとうに治っている。
それでもボスに任せられているのをいいことに、「まだ少し引きずっている気がする、念の為!」なんて誤魔化して、トラックに乗せないようにしていた。
だけれども私の休みがまたやってくる。
気付いたら「諦めが悪いのはわかっているんだけど、ボビーを引き取ってくれるとこがあるかもしれないから、私が帰ってくるまでは、トラックに載せないでほしい」とボスに言っていた。
ボスは苦笑いをしながらも「okay」と言ってくれた。
私のボスは朝6時から母牛のチェックをし、一日中他のワーカーと同じように仕事をし、夕方の6時に帰宅した後、夜の10時そして、朝3時にもう一回、新しく生まれてきた子牛が無事で母牛が無事か牧場にみにいく。
家に帰れば彼らには幼い三人の子供がいるのに、いつ寝ているんだろう。といつも疑問だった。
私のボスは、いつもいう。
「牛達なしでは、私たちはくらせていけないのだから、やはりそこに敬意を持ちたい。」
牛や子牛を傷つたりするワーカーがいるのならば、即クビだ。
彼らにとって、牛とは共に生活をつなげるチームメイトみたいなもので、いちビジネスとはいえ、自分達の命を削ってでも、全力で牛達の命を守り、繋げ、尊敬し、大事にする。
私の前の仕事のオーナーはBobbyを嫌った。
三年間働くうちの二年はBobbyをやらずに済んだ。
けれど去年は、牛肉の価格が下がり、売れ残った牛達が溢れ、どうしてももう新しい子牛を受け入れるところがない。と言われ、始めるしか他なかった。
「最悪の中の最善の方法」と彼は言っていた。
一緒に働いてきたからこそ、牛と共に、命と共に働く人たちがどれだけ真剣か知ってる。彼らは誰よりも命と向き合っている。
6万トンもの廃棄量を出す、命を大事にせず捨てる人たちなんかよりも。
だからこそ、攻める行き場所を失ったこの気持ちは、私の中で溜まり続け、膨張して行く。
もしbobbyの制度がなくなってしまったら、
牛乳牧場は牛乳を生産させるために、子牛を産ませなければいけない。
そしたらまた行き場のなくなった子牛たちが前みたいに石で殺されるだろう。
牛肉や牛乳牧場にステイする子牛としてキープされたとしても、今みたいに世間の牛肉の価格が下がった時に、行き場のなくなった子牛が増え、bobbyみたいなあまりものを預かってくれるところがあらず、その子牛の生産をやめなければいけないなら、今度は出産せずミルクを出せない母牛が価値を見出されずに殺されるだろう。
肉牛農家に頼ったとしても、同じような弊害が伴ってくる。
そうやって回っているんだ。
この生産性、効率的、ビジネス社会の歯車に、簡単に命がのかっていて、殺されたり、急に生かされたりしている。
そうか。行き場のない喪失感で、涙も出なくなった。
この身勝手で、味気のない、社会にいる自分ではどうしようもできないのかもしれない。
そんな時に、知人にボビーの話をした。
そうすると彼は「知らなかった。もっと早く知れたらよかった。」と言うと、2週間後には日本の肉牛について調べるようになった、と言った。
インスタグラムにボビーのことを上げた時も「悲しいけれど、そういう事実を教えてくれてありがとう」と多くの人が言ってくれた。
それもそうだ。私たちの現代社会では普段の生活の中で「死」を目にすることなんてほとんどない。
スーパーに行ってお肉を買う時だって、そこに並んでいるのはパッケージに入った「肉」というプロダクトだ。
よほど感受性豊かな人じゃないと、そこで動物が私たちのために殺されている。なんて一回一回考えないんじゃないかと思う。
もはや、この社会では自分達が口にしている生き物の死でさえ、あえて隠されているんじゃないか。
それでももし、お肉を買う一人一人が、私が毎日感じているようなことを感じれるとしたら、お肉や食べ物の価値観は変わるのかも知れない。
食べられないから捨てよう、ただの製品だし。なんて考えないのかもしれない。
自分が早くきていたら助かっていたかもしれない命が、腕の中で冷たくなって行った時
体が少し弱く、みんなに遅れを取ってしまう子が、銃で撃たれ殺される音を聞きた時
それでも、こんな世界でも必死にミルクを飲み、尻尾を上げて喜び走り回るのを見た時、
私たちが4日後にするひどい仕打ちを何も知らずに、駆け寄ってくれる時、
生きる姿を見ている時。
私たちはそういう生き物を食べ生かされている。
お肉のパッケージを買うときに、一緒にそういう感情も入ってくるのなら、誰も選り好みしたり、無駄にしたりしないのかもしれない。
私には全てを救うことはできない。目の前の命と向き合い、自分のエゴで悲しみ、そして手に負えるほんの一部を助けることしかできない。
どうすればいいかもわからない。
でも、私には書くことができる。
伝えることができる。
ねえ、スーパーで売ってる、そのパッケージに入ったお肉、実はちゃんと生きてたんだよ。
わたしたちと同じように、愛を持ち、感情を持ち、喜び、怒り、悲しみ、楽しんでたんだよ。
必死にこの人間の物理社会の中で生き残ろうと、価値を見出そうとしていたんだよ。
自分達が口に運んでいるその食べ物はどうやってできて、その影で、他のものがどうやって排除されてきたか、一人一人が向き合い考えれることができれば、美しい生きている生き物に対して、私たちが生きるために殺してるものに対して、「価値がないから捨てよう」なんて思わないのかもしれない。
そもそも、自分が口に入れているものが何かを知らない。なんておかしな話だ。
私の文章は、とても感情っぽくて説得力がないから、もっと具体的なことを書いた記事を紹介したい。
ニュージーランドのbobbyを救うために牛肉として受け入れてる牧場だ。
「マクドナルドなどの大手企業が、もしお肉の見た目(赤くて肉っぽい肉)にこだわらず、サステイナブルな考え方とともに、Bobby肉の受け入れを始めるならば、彼らの価値はやっと見出されるだろう。」
「それには、世論の変化、が必要である。見た目や価値観に惑わされずに食品やプロダクトの中身や工程までしっかり考え正しい選択ができる一人一人の意識が、この悲しいシステムを変える一つの道だといえる。」
選挙に行くでも、自分の食生活を変えるでも、買う前に少し考える。でも、なんでもいいと思う。
私はプロじゃないから、どうした方がいい。なんてアドバイスはできないのだけれど、一人一人が生活の中に少しでも意識をむけ、自分勝手に搾取するのをやめるのならば、もしかしたら変わるのかも知れない、と思う。し私はまだ希望があると信じたい。
そして私自身も、自分の食生活や行動を見直す一人だ。
食べ物や製品を買うときや取り入れるとき、どこからそのものがきて、どうやって作られ・育てられ、どういう概念で経営しているのか。
自分が生活の中で必要としているものの、プロセスをもっと知ること。
なんならばそのプロセスに自分が関わって行くことが何より大事だと思っている。
この世界の事実を知ろうとするたびに、人間の身勝手さ、いわば自分達のなんとも傲慢で、自己中で、最低で、まるで全てをコントロールできる絶体的な存在、だというような行動たちを、どうしても受け入れれないでいた。
そして、自分も含め、その「事実」を知らないで、生活することが至って簡単だと思い知った。
だからこそ自分達がどうやって生かされていて、生活しているのか、知っていかなければいけないと思う。
そして事実を知った時には、それを受け入れないければいけない。目を逸らしてはいけない。
そういうものだから仕方ない。と言って逃げてきた人類が犯したさまざまな不条理をまた「仕方ない。」と言って、私たち私たち唯一の知能「何が正しいか考える」というものを破棄し続けるのであれば、私は人間に対して生物的な美しさを見出すことはできないと思う。自分も含め。
それが Bobby たちが残した叫びだと私は思う。
rip to all bobbies
参考にしたニュージーランドの記事