狩りで学んだ、経験することの大切さ。
先日ずっと行きたかった、ハンティングに同行させてもらった。
私の住むニュージーランドでは、誰でも免許さえ取得すれば、銃を持ち狩りを行うことができる。
そのため、そこらじゅうにハンティング専門店やガンショップがあり、日本人の私からすると驚きだった。
当初、私の狩りに対するイメージはあまり良くなく、「獰猛な人がやる趣味」「ただのゲームのために殺される動物がかわいそう」と思っていた。
そんな私がなぜ興味を持ったかというと、私の友達のハンティングに対する姿勢に感銘を受けたからである。
ニュージーランドでは政府が増えすぎた動物を、生態系のためにコントロールすることもあるという。
コントロールのためにヘリコプターから銃で撃たれた動物は、その場に放置され、腐っていく。
彼が狩りをする理由の一つに、どうせ途絶えてしまう生命なら、楽しんで狩りをし、お肉の細部まで感謝していただく方がよっぽどいいという。
彼は狩りをする時、政府のやり方のように、むやみやたらに動いてる動物を殺すわけではない。
オスの鹿、その中でも大きくて、歳をとったやつ。
その群れを尊重し、将来がある若い鹿や、子供連れの母鹿はからない。
狩りをする人の中には、私の当初のイメージ通り、ゲームのように殺す人もたくさんいる。SNS映えするからやる。という人もいるぐらいだ。
私は狩りのメインパートは動物を撃つところだと思っていた。
しかし、それはほんの一瞬に過ぎない。
自然に踏み入れる
まずは彼らの居場所に着くまで、20−30kgある荷物を抱え、山や崖を登り、川を渡り、森をかき分けて進む。
自然は偉大だ、そして力強い。人間一人簡単に消せる。
自分の命を守るために、自然に対する知識は必須である。
そして絶対に舐めてはいけない。
川の水の流れ、風の向き、匂い、雲の深さ、蜂の巣の場所。すべてに気を巡らせて、自然と調和する。
ガイドブックを読んだ私には到底気づき得ないことを彼は知っていた。
自然の中での経験で学んだという。
鹿を探す
風に流れる彼らの匂い、微かに聞こえる鹿たちの声、いろんな動物の糞や足跡の中にある、ひときわ新しい鹿たちの形跡。
ネットは疎か、携帯はもちろん使えない、使うのは自分の頭に入っている山や動物の知識、そして研ぎ澄まされた自分自身の五感。
こんなにも自分の体の一部一部に集中し、五感を張り巡らせたのは人生で初めてだった。
私が気づかないような遠くの小さな音、匂いを嗅ぎ性別を判断し、糞を見てどのくらい前にいたか、どのくらいの大きさか、彼は人間離れした五感で情報を得てた。
鹿たちの行動を知り、自然を伝って入ってくる微かな情報から、全てを推測し、探す。
ときには何も得れない時もある。ときにはそこらじゅうに溢れている時もある。
3時間同じ場所で鹿たちが現れるのを待たなければいけない時もある。
最後にはドラマや映画のような展開は待っていないかもしれない。
それでも諦めずに根気良く、待つ。自然と調和するということは、そういうことなのかもしれないと私は感じた。
電気はもちろんない、太陽が沈み始め、辺りが暗くなったときには、人間の視覚で活動を続けるのには限界がある。
山小屋に戻ろうとした時、それでも諦めない彼は2頭の鹿を見つけた。日が沈むほんの前。
そこからはまるで細切れ動画のように一瞬で、スローモーションのように鮮明に覚えている。
相手は自然に生きるプロの動物だ、微かな音や、匂いの変化、こちらの緊張に気づいて逃げ出すこともある。
安定していて、なおかつ見晴らしがいいところを探す、銃を取り出し、弾をセットし、距離を推測、狙いを定め、撃つ。
この一連をわずか1分以内にこなす。
弾が当たる場所によって、死に方がかわる。
長い時間をかけて苦しんで死んでいったときには、ストレスによりお肉の味も全然違うという。
肩を狙う。肺と心臓を貫通させて、苦しみを与えずに、一瞬で命を奪うためだ。
わずか15センチほどの部位を300m以上離れた場所から、動いている的を撃つ。
打った瞬間、私の感情は複雑だった。
見つけたときには、あんなに嬉しかったのに、さっきまで美味しそうに草を食べていた鹿のシルエットや、撃つ前にこちらを向いた時の顔を思い出すと、悲しさがこみあげてきた。
命を奪うということはそういうことだ。だから感謝しなければいけない。
忘れないでほしいこと。
お肉は切り身の状態では出てこない。
生きている生物を誰かが殺して、綺麗に切断して、保存して、パックして、食卓に届くのだ。
今そのプロセスが、畜産化によりあまりに容易にできてしまう。
そしてそんな簡単なプロセスでさえ、知らない人の方が多い。
それこそに問題があるのではないか。
日本では年間、612万トンもの食料破棄が行われている。
風に乗った動物の匂い。
耳をすませば微かに聞こえる、鳴き声。
糞、足跡、寝床、目に映るすべての痕跡から、想像する動物たちの行動。
山を這いつくばって登り、ずぶ濡れになって川を渡り、寒さに凍えながら静かに待つ。
一頭の鹿を見つけたときには、言葉にできないような感動がある。
その行動一つ一つ全てをずっと目で追っていたいほど尊い存在。
その命を奪い、頂くということ。私の胸に刻まれ、食べるたびに思い出し感謝するはず。
きっと太古の人間はそうやって過ごしてきたんだろう。
その感情は、お肉を食卓で囲む人や、テレビでドキュメンタリー番組を見ただけの人には、決して分かり得ない。
様々な情報が誰でも容易に手にできるこの現代社会。
ウェブサイトを見ただけ、誰かの体験談を聞いただけで、はたかも全てを知ってる気になってしまう。
本やネットで知った情報では、理解できない、分からないことがある。
私たちの体で感じ、五感を使って経験した先には、言葉だけでは表せないものがある。
実際に体験したひとにしか、共感できない、苦しみ、悲しさ、怒り、そして感動がそこにはある。
学びは、結果ではなく、そのプロセスから得れることの方が多い。
ひと昔前は、自分で全てやっていたものが、何もかも便利になりすぎたこの世の中、機械や、テクノロジー、お金を払えば、誰かが代わりにやってくれる。
苦労しなくても生きていける。
考えなくても、みんなについて行けば誰かが代弁してくれる。
やらなくても、誰かが自分の代わりをしてくれる。
楽をするために、お金を稼ぎ、誰かがが自分のためにに欲しいものを全て手にに入れてくれる人生が成功の代償ならば、私はそんなものは欲しくはない。
みんなが命を落とさずに、生きれる社会を目指し、発展を続けてきた人間社会。
今ここまで便利になり、豊かになリ、一生懸命頑張らなくても、それなりに生きていけるようになった。
自分の頭で考えることをやめ、他人任せにしていても、別にどうってことない。
それじゃあ進化ではなく退化だ。
だから社会には何のために生きているのか、働いているのか、わからない、という若者で溢れているのかもしれない。
だからこそ、今私たちに必要なのは、そのプロセスを知ること、やってみること、自分の五感で感じ、自分の頭で考えること。
得た感情や、結果、に正解はなくていいと思う。
その経験をするということが、必ずや人生の中でいきるから。
そんな私にとって大事な感覚をより一層強く、胸に刻み込んでくれたこの経験はかけがえのないものだった。
Big thank you to my friend who gave me amazing experience.