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【映画考察】春樹の小説を読んでいるかのような映画 『ドライブ・マイ・カー』

村上春樹の短編小説集「女のいない男たち」に収録されている、

  • ドライブ・マイ・カー

  • シェエラザード

  • 木野

の3つの短編小説が原作となった「ドライブ・マイ・カー」。

せっかく小説も読んだから、その上で私が映画から個人的に感じたことをまとめてみようと思う。※ネタバレがっつり注意。

テーマ

映画を観る上で、私が個人的に注目した大きなテーマは3つ。

1. 演技か、本当の自分か、

主人公の家福に隠れて、彼の妻(オト)は他の複数の男性と関係を持っている。

注目したいのは、家福も、オトも、どちらも役者で演技をすることが仕事ということ。映画では不自然に真顔でのセックスシーンが描かれており、どちらも本当の自分を隠していることが伺える。

それでも彼らが心から愛し合っていたのは事実。小説では「お互い深く愛し合い、生きていくためにお互いを必要としていた」と言っていたし、映画でも二人の細かい会話やお互いに対する態度から、本当に愛し合っていて、お互い大好きなんだな、と伝わってくる。

家福は彼女を失いたくなくて「秘密を知りながら知っていることを相手に悟られないように普通に生きる」演技をし、彼女も彼を失いたくなくて「他に男がいない」演技をする、、、お互いがお互いを失いたくないが故の嘘(観客のいない演技)って感じ。

また、家福は妻の死後、妻と関係を持っていた男(高槻)とお友達になるが、これも「生前妻と関係を持っていた男」だったから興味を持ったのが始まりで、「浮気相手が高槻だったなんて気が付いていない」演技。

小説では演技で仲良くしているうちに本当に高槻と仲良くなってしまい、演技と本当の自分との境界を見失っている。

映画では高槻が家福に「オトさんのこと聞かせて。どんなふうに本を書いてたとか、なんでもいいから。」というシーンがあるが、オトと高槻は肉体関係があり、どんなふうに本を書いていたかも知っていることを考えると、彼もまた演技派。

家福は妻がどうして浮気していたのか、理由が知りたいとの思いで浮気相手の高槻に近づくわけだが、彼女の心を今更見ることは不可能だ。

本当に大切なのは、「相手を深く知りたいなら、自分自身を深く見つめるしかない」という高槻のセリフが語っている。

「他人の心をそっくり覗き込むことなんて無理です。自分が辛くなるだけ。でも、自分の心なら見ることができる。結局僕らがやらないといけないのは、自分の心に正直に、折り合いをつけていくこと。」

どれだけ言語能力が高くても、コミュニケーションが取れているように思えても、相手の本当の心の中を100%覗き込むことはできない。自分の心に正直に、どんなに傷ついても苦しくても、それを押し殺さず、相手にはっきり自分の素直な気持ちを表現すること。そこで初めて、相手を知ることができるのだと。

2. 大切な人が居なくなっても、世界は変わらず進んでいく

映画の登場人物にはそれぞれ、大切な人を失った過去があり、それを上手く克服できていない様子が伺える。

  • 家福:妻(オト)をなくす

  • オト:娘をなくす

  • 高槻:オトをなくす

  • みさき:母(の中にあったもう一つの人格、サチ)をなくす

  • みさきの母:夫と離婚

家福は妻を急に亡くしたが、その妻(というか夫婦)は昔、4歳の娘を亡くしており、娘の死を実際には乗り越えられていない。(小説ではこの頃から妻が浮気を始めている。)

家福は愛する妻の死を乗り越えているように演技をするが、実際には乗り越えられておらず、自身が演じていた戯曲「ヴァーニャ伯父」の主人公、ワーニャ役も、演技中に本当の自分が出てきてしまい、役ができない状態にもなっていた。

高槻は家福の妻、オトを亡くし(高槻はオトに恋していた)、みさきは母親の中にいたもう一人の人格で大好きなサチを亡くし、みさきの母親は夫(みさきの父親)と別れてから狂ってしまった。

映画の中盤で、家福が演出を担当する舞台「ヴァーニャ伯父」で、主人公に選んだ高槻が本番直前で警察に逮捕されてしまう。ここで、家福はせっかく友達になった高槻まで失ってしまう。

舞台関係者からは「舞台を中止するか、家福が主人公役をやるか」迫られるが、家福は居なくなった高槻のことで頭がいっぱいになってしまい、舞台のことは考えられないといった様子で病んでしまい、遠出する。

私たち人間誰しもがいつか経験する、大切な人をなくす、という場面。ラストで家福も、「生き残った者たちは死んだ者を考え続ける。そうやって生きていかなくちゃいけない」と言っているが、死んだ妻や今回の高槻のように「何故?」を今更追求しても結局無意味で、大切なのはこれからを生き抜くことだ、と映画を通して伝えてくる。

「ヴァーニャ伯父」の演劇シーンでの、ソーニャのセリフ。

「仕方ないの。生きていくほかないの。ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々と、長い夜を生き抜きましょう。運命が与える試練にもじっと耐えて、安らぎがなくても、ほかの人のためにも、今も、歳を取ってからも、働きましょう。そして、最後の時が来たら、大人しく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、私たちは苦しみましたって。泣きましたって。辛かったって。」

3. コミュニケーションの方法

家福の舞台の演出法の特徴は、いろんな言語を使う、ということ。

いろんな国の役者が、それぞれの言語でセリフを言い合い、互いに言葉としては通じていないにも関わらず、言語を超えた先で繋がり合っている、そんな演出法。

家福は基本的に形として目に見えるものや言葉に重きをおいている。それ故、妻の生前に目撃した他の男とのセックス現場で、「妻は浮気している」と考えてしまうし、人とのコミュニケーションは基本的に言語のため、「フィーリング」が理由で誰かとセックスをするなんてことはありえない。(皮肉にも彼は緑内障を患っており、いずれ失明してしまうのだが。)

家福は小説の中で、苦しみをこう語っていた。

「何より辛いのは、僕は彼女を本当には理解していなかった、ということ。彼女が死んでしまった今、おそらくそれは永遠に理解できないままだ。何か大事なものを見落としていたのかも。目では見えていても、実際にはそれが見えていなかったのかも。」

一方高槻は、言語を使うコミュニケーションではなく、もっと心でわかり合おうとする人間。映画の中では同じ舞台役者の中国人女性と肉体関係を持つが、高槻は北京語も英語も話せず、相手も日本語は話せない。肉体関係そのものが目的ではなく、相手を知るための手段の1つとしてセックスをする、そういうタイプ。

また、カッとなるとすぐに怒鳴ったり手が出てしまったりを考えると、高槻は人とのコミュニケーションで言語を使うのは苦手なのだろう。

言語を介して意思疎通する人間と、フィーリングで生きる人間。家福は舞台の役者たちに対して指示を出すも、「もっと上手く説明してほしい」とフィーリング人間から苦言を言われていたほど、分かり合えていない様子だった。

さらに、映画では口が聞けない妻・ユナを持つ韓国人のユンスという人物が登場する。彼は好きな人とコミュニケーションを取りたくて手話を覚え、他にも日本文化を学ぶために日本語を覚え、英語も話すことができるマルチリンガルだ。

相手を知りたくて相手の言語を覚える者、相手を知りたくて肉体的な関係を持つ者、、そこから感じたことは、コミュニケーションの手段は1つではないんだということ。言語が通じなくても、本当にフィーリングの合う二人の中でなら、何か通じ合えるものがあるということ。

もしかしたらオトも、浮気ではなく「相手を知るため」の、コミュニケーションの1つとして他の男性と関係を築いていたのかも。

その他の細かいポイント

みさきの存在

家福の専属ドライバーとして働くことになるみさき。しかし、みさきは必要最低限なこと以外は口を開かない無口人間だ。そして、家福も同じように普段から口数が多いわけではない。

最初はみさきは家福が車の中で流す戯曲のセリフを聞きながら家福に興味を持ち、戯曲の本も読むようになる。一方家福はみさきの運転の腕が想像以上に良いことと、死んだ娘と同じ歳だったことで興味を持ち始める、そんな感じだった。

そんな二人が、車(家福が長年大切にしてきた特別なもの)という神聖な空間の中で、言葉でコミュニケーションを取らずとも、互いに認め合い、感じ合い、わかりあっていく、そんな描写が描かれている。

これまで言語でのコミュニケーションが主だった家福にとって、みさきの存在は言語のコミュニケーションを超えた、沈黙の中で意思疎通を交わす心の支えのような重要な存在になっていく。

映画は『ゴドーを待ちながら』という戯曲から始まる。
「もしゴドーが来なかったら、明日首を吊ろう」
「もし来たら、俺たちは救われる」

映画の中で、戯曲が家福の心を綺麗に表しており、家福はみさきに出会ったことで心が救われていくことを考えると、この場合のゴドーのメタファーはみさきだろう。

シフトチェンジ

小説ではみさきのシフトチェンジはとてもスムーズで、いつしているのか全くわからない、車に乗っていることを忘れるほどの腕。エンジンの回転数に耳を澄ましていてようやくわかる程度、と表現されていた。映画でも車線変更をなめらかに行うシーンがある。

一方で、家福が生前の妻の運転に文句を言うシーンがあり、家福は妻に限らず、特に女性が運転する車は危なっかしくてあまり好きではなかった。

ここで、運転技術をメタファーに、人間を2つのタイプに分けることができる。

嘘(演技)が自然な人と、すぐに気付かれてしまう人。(運転が上手い人ほど嘘が上手い。)

みさきは母親から虐待されても嫌なことを言われても、「傷ついている」ことを見せず、平気で生きている演技をしていた。家福も、妻が浮気をしていることに気付いていない演技をしていた。

一方で、家福にとって妻の浮気は簡単にわかるものだったし、高槻がオトのことを本気で好きだった浮気相手ということも簡単に気が付いた。(高槻は映画の中で交通事故を起こしており、運転技術が低いっぽい。)

しかし映画の中では、家福やみさきのように「演技」が上手い人は、それ故に大切な人をどこかで傷つけ、失ってしまう。

これについて、家福や、小説『木野』の主人公は、妻に浮気をされたにも関わらず、「上手く傷つくことができなかった」と表現している。

「俺は傷つくべき時に、十分傷つくことができなかったんだ。本物の痛みを感じるべき時に、俺は肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実に正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。そう、俺は傷ついている、それもとても深く。」

作中ではあまり詳しく語られないが、みさきも同様に母親からの虐待に対して心を殺してしまい、上手く傷つくことができなかった。それで母親はもう1つの人格(サチ)を目覚めさせてしまう。

「傷ついた」ことを素直に表現できないというのは、本人だけではなく相手も深く傷つける。苦しみを理解してほしい、秘密を打ち明けたい、自分が悪いと怒られて解放されたい、そんな相手の心をも殺してしまうからだ。

そうして自分勝手に、相手に耳を貸さないまま本当をやり過ごしたせいで、大切な人を失ってしまった時にはもう永遠に戻ってこない。

空き巣に入る女子高生の語

家福とオトがセックスをしたあとは、オトがよく物語を語っていた。映画中に語っていたのが「初恋相手、山賀の家に空き巣に入る女子高生の話」で、小説では「シェエラザート」に収録されている。

彼女が語る物語を次の日まで家福が覚えておき、彼女に伝え、彼女がそれを元に脚本を書き、彼女の仕事が成功していく、、そんな特殊な流れで、二人はセックスを通して不思議な関係性を築いていた。

ある女子高生が初恋の相手、山賀の家に定期的に空き巣に入り、毎回山賀の私物を1つ盗む代わりに、自分の私物(彼女がそこにいた、というしるし)を置いていく、というお話。

山賀のことは深く知りたい、しるしの交換で深く交わりたい。私が空き巣に入っていることは山賀に知られたくないが、それでもやめられない。

最終的に色々あり、女子高生は空き巣には入れなくなってしまう。彼女は山賀から何か言われることを覚悟するも、山賀はいつもと何も変わらず、世界は穏やかに流れていた。

「恐ろしいことが起きた、しかも自分の罪なのに、世界は穏やかに何も変わらないように見える。自分のした罪の責任を取らないといけない。何もなかったことにすることはできない。」

このお話が真っ先につながるのは、家福の妻、オトの罪(浮気)だ。

オトは浮気をしていることを隠しているのと同時に、バレたい、話を聞いてほしいとも思っていた。(と高槻が言ってた。)山賀に知られたくない、と思いながら自分のしるしを残していく女子高生のように、オトも自分の罪を少しずつ家福に知らせようとしていたのではないか。

家福が彼女の浮気現場を目撃する、という決定的なしるしを残したのに、それでも彼女の世界は何も変わらない。家福はいつも通り優しい完璧な夫だった。

オトはそれに感謝すると同時に、自分の罪に責任を取らないといけない、とどこかで考えていたのではないだろうか。それが、亡くなるその日の朝に言った、「今日ちょっと話せる?」の続きだったのかもしれない。

みさきが娘になる

家福とオトの間にいた、4歳まで生きた娘。生きていればみさきと同じ年齢ということもあり、家福は少しみさきを娘と重ねていた。

小説では1回だけ、みさきのセリフが「、、と娘が言った。」と表現されているシーンがあるが、映画ではどこでみさきは家福の娘になるのか。

みさきが昔母親を見殺しにしてしまったことを家福に告白した際、家福は「僕が君の父親だったら、君は悪くない、と肩を抱いて言いたい」というセリフがあるが、その時は、実際には父親ではないからそんなこと言えない、という感じで濁してしまう。

その後、今度は家福がみさきに対し、自分が妻を救えたかもしれないという後悔を告白する。その時は、みさきが家福に抱きついて慰めるが、この抱きつくという表現がそのまま、「みさきが娘と重なった」部分だろう。

大切な人に傷つけられ、大切な人の死に加担し、責任を感じつつも相手を失ったことで言いたいことが言えずにモヤモヤだけを残している二人。そんな、共通の悲しみを共有する二人が分かち合い、自分の非を反省し、それでも生きていくことを誓う美しいシーン。

みさきのラストシーン考察

最後、謎にみさきが韓国で家福の車を乗り回してるシーンで終わる。(しかも犬付き)

物語で家福は緑内障を患っていたので、ラストの時点ではもう失明に近く、車の運転もできない状態だろう。

かと言って、あんなに心からわかり合って(しかも二人とも家族がいない)、しかも誰かを失う苦しみを知っている二人が、離れ離れになることはないだろうと考えると、家福とみさきは一緒に韓国で親子のような関係で暮らしているのではないだろうか。

散々、人とのコミュニケーションは言語だけではないことを強調していたし、みさきも家福の舞台を何度か観て感銘を受けたような感じだったので、言葉が通じない韓国に行くことは理解できる。

さらに、物語で出てくるユンス、ユナ夫妻(ユナは日本語がわからない、口が聞けないため韓国手話で会話する)に感銘を受けた可能性もある。

ユナは日本では言葉も通じない、友達もいない環境となるが、ユンスは愛するユナのため、自分がユナの話を100人分聞いてあげることを決心し、日本に一緒に来ている。自分以外彼女のことを支えられない、と。

家福とみさきはお互い心の支えになっており、今回は目のあまり見えない家福のため、みさきが韓国語を覚えつつ、精神面も支える覚悟で韓国に住む決心をしたのではないか。

また、夫妻の犬と似た犬を車に乗せていたことから、家福もみさきも、犬も含めて言語が通じない者との、心でのコミュニケーションに重きを置くように変化したのだろう。


※以上、私の勝手な考察でした。言い切った表現ですが、全く根拠はありません。

この映画は、「小説を読んでいるような映画」と表現できるほど、ハルキワールドが崩れず描かれていたし、物語と並行して進む戯曲もまた綺麗で、すごく美しかった。

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