一歩間違えればディズニーの悪役になりかねない!?
子どもたちと一緒に家でディズニー映画
「ノートルダムの鐘」をみた。
《ストーリー》
主人公カジモドは、ジプシーの子ども。
パリ一番の醜い容姿で化物呼ばわりされるため、ノートルダムの鐘つきとして身を潜めて生活している。
彼を育てたのは、ジプシー・罪を許さず、ジプシーを憎み、根絶やしにしたいと考えている判事フロロ。
カジモドが、町のジプシーの女性エスメラルダと心優しき兵隊長フィーバスと出会い、心の変化や本当の醜さとは何なのかを考えさせられる作品です。
☆☆☆
子どもの頃から何度か見ていた作品であったが、改めて見ると考えさせることは多かった。
自分が注目したのは、悪役である判事フロロだ。
彼の考えは、罪は許してはいけない。ジプシーは悪=罪。自分の考えに間違えはない。この軸がしっかりしている。
人の軸は、それぞれ違うため価値観を合わせようと思うことの方が難しい。裁判官(判事)であるフロロは、絶対的正義=自分は法律という、軸で判断を下していた。
町の犯罪がなくなり、安心して生活ができるというのは市民にとってとても幸せなことだ。そのためにルールは必要だ。
判事フロロの正義は人を殺してでも悪を根絶やしにするという考え方だ。
後半に行けば行くほど、自分の考え方、やり方は間違っていない!悪いのは相手だ。私が悪魔にそそのかされそうだ!とも思いこんでしまっている。
子ども目線からでもわかる、ディズニーらしい悪役ぶりだ。
☆☆☆
冷静に、自分や会社の状況に置き換えたときに、フロロの考え方は誰にでも起こりうる、否起こってしまっている現象だと思えた。
例えば、仕事でミスをしてしまった場合、そのミスを自分のことと考えず、会社の環境が悪いから、こんな事を言われたからミスを起こしてしまった。など。自分は悪くなく、他人・環境の否定に走ってしまう。
人は自分が可愛く、自分の考えを否定されたくないし、自分自身も人生観や考えを否定したくない。
この「ノートルダムの鐘」で判事フロロにその行動・その考え方は”やばいよね”っと言ってしまっていても、現実の自分には”私やばいよね”なんて思ってもいない。
第三者目線に立って、自分を眺めた時、初めてわかることがある。
もしかしたら判事フロロのような、思い込み・行動をとっているのかもしれない。
☆☆☆
ノートルダムの鐘
音楽も絵もストーリーも素敵な作品です。
お時間ありましたら是非ごらんください。判事フロロ注目して見ていただけると深みが増しますよ。
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