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私のような私

ほんの昔の私は、悩んだりしたら人に聴くクセがあったし自己啓発本を読みあさって、そこに答えを見つけようとしていた。

そこに安堵のようなモノも存在していた。


それは、
私の中じゃないところに答えはあると信じていたのだ。


、、、というのは言い訳。


私の答えに自信がなかった。
私自身に自信がなかった。


人の意見を聞きまくり、そして従う。
世間でいう『いい子』だった私は
人の言う通りにして生きていたように思う。

そこに、答えがあると信じて
そこに、安心があると信じて

疑わなかった。



大多数の意見に沿わせた、″私のような私″ は
そうやって出来上がっていた。

そんな私のような私は
どうやっても、“私″ ではなく


その私とその得体の知れない
私と “私のような私” との乖離の差には

”答えみたいなモノ” や “安心のようなモノ”
が存在した。


でも、その乖離の差が
私をどこかしら何かしら私を締め付けていた。


自分じゃない誰かになろうとして
自分じゃないモノに安心を求めようとしていた。

それは自分自身ではないし、
本当の安心ではない。

結局は自分の中にしか答えがないのだ。



日々感じること、
日々想うこと、
日々意見すること、


そんな風に過ごす自分はいけないのだと。


大多数が正解だ。
あの尊敬する人が言うことが正解だ。
と想って従っていた私は


所詮、“私みたいな私”だった。


人気のある曲はいい曲だ。
人から支持される人は魅力的な人だ。
高価なモノはステキなモノだ。

そういった、世の中で評価されているモノは間違いないんだと。


反対意見のある私は、
そうは思えない私はいけないんだと。

どこか観ないように、感じないように、

否定していた。


でも、
世の中に評価されていようがいまいが
人に支持されようがされるまいが
高価なモノだろうが安いモノだろうが


結局自分が良ければそれでいい。


そこに胸を張って

『私はこう想う!こう感じる!こうしたい!』
を貫いたらいい。


そこに本当の安心があり、
そこに本当の自信がある。


そんなことに、ようやく気づいた。

それは
自分の人生を切り開くということ。
自分の道を歩むということ。


日々感じ、日々想い、日々従う。


そうやって
自分のペースで歩んでいこう。




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