期待値は適正値?
私は、病院勤務で理学療法士という仕事をしています。いわゆるリハビリを提供する者です。
私の病院では、維持期の患者さんが多くいます。維持期とは病状が落ち着いて変化のない患者さんのことです。
でもごく稀に、
すごく回復する患者さんも入院されます。
そんな方は、日に日に、一つまた一つと、できることが増えていきます。それに応じて、こちらもリハビリメニューをそのレベルに応じて、少しだけ難しいものに変えていく必要があります。
寝たきりだった人が、起きれるようになり、歩けるようになり、最初は予想もつかなかった在宅に帰れたパターンもあります。
そして残念ながら、その反対もあります。
最初元気でスタスタ歩けていた人が、病気のために日に日にできなくなるのです。歩けてたのが、歩けなくなり、立てなくなり、そして寝たきりになってしまう。
『なんであんなにできてたのにできないの?』
そんな感情がふつふつと芽生えます。
日に日に悪くなるその人をみて、昔の元気な姿を知っている場合は尚更、そんな感情が湧き上がってきます。
“色々出来てたその人” と、“今のその人”を重ねてみてしまいます。ギャップが違いすぎるところに葛藤を覚えるのです。
歩けていた時を知っていた分だけ。
元気に笑っていた分を知っていただけ。
できるはずでしょ?! なんで?? と。
しかしどこにも逃れようのない現状は、その期待を裏切るかのようにそのギャップを広げていきます。
期待値と現実のギャップが広がる程キツくなる
当然それを本人が感じとってしまっていたら、とても苦しいと想います。
期待されてる。自分も期待に応えたい、、
でも、、でも、、できない。
昔と今の自分のギャップ
他者からの評価の期待。
それは時にプレッシャーとなり、その人に重くのしかかる。
プレッシャーは時に、自分の実力をも奪ってしまう。
実力はあって活躍している人が、プレッシャーで本番では本来の力が発揮できないというパターンもあるでしょう。
何かをするとき、
その人の、やる気のベクトル。
応援する人の、期待のベクトル。
その人より応援する人が高いと
その差はどんどん大きくなり、
その分どんどんプレッシャーとしてのしかかるかもしれません。
やろうと取り組んでいる事よりも、時にそちらが気になって、期待を裏切らないために動いてしまうこともあるかもしれない。
そしたら、本来の目的が曖昧になる。
だからそんな時は、その人のベクトルの方向や高さを観て、その少し上にいてその人をサポートしてあげる。実力が発揮できるように。
昔ではなく、今をみる。
その人の今。
その人の現状。
その現状を受け止める。
今日はこれができなくなってしまった。
でも、これならできるかな?
日に日にできなくなる中でも、ちょっとした希望をみつけて関わること。
同じように落ちていく先をみるのではなく、こちらが少し上に期待をあげてあげること。
希望をみてあげること。
それが本人にも、希望を与えることなんだと想います。
でも、それは良くなっていく人にも言えること。
この人はどんどんできているからなんでもできるはず!
そんな期待をして、その人よりも高い高い位置にベクトルを置いてしまったら、
もしかして、
その期待に応えないと!という気持ちが先行して、自分からのやりたい!がみえなくなる時もあるかもしれません。
そうすれば、目的が、
その人の期待にこたえるために。頑張る。
ってなりかねない。
楽しくないし、どんどんしんどくなる。
まず、自分がやりたい!
そしてそれを支えてくれる人がいるから、想っていてくれる人がいるから私はもっとやれる!
まずは自分から出てくるモノ。
周りはそれをサポートし勇気づける存在に。
そして、そのベクトルをどうやったら高くする事ができるだろう?そんな方向でのサポートを。
その人が主体的に生きるためにも、
全力で生きていってもらうためにも、
現状を観て、
その人よりもちょっと上の期待値を
お互いが心地よく、らしく生きれる
そんなほんのちょっと上の期待値を。