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不登校って、治るもんじゃないから  #不登校の親 5

2学期もそろそろ終盤になってきました。

担任の先生の家庭訪問は、あっさりとしたものになり、(本人がまだ会いたがらないため)不登校生活も、淡々と進んでいる状況です。

うちはまだ恵まれている方で、
母親は仕事を続けられていますし、
フリースクールも、週1回ではありますが、通うことができています。

田舎とはいえ、とりあえずフリースクールは数箇所あるのですが、
どこが合うのか、相性がいいのか悪いのかもわかりません。
学校や教育委員会が関わっている場所もあるのですが、
そこで対処できるのかどうかも難しいところです。

相談するにしても、そもそもどこにつながったら良いかわからないという方も多いのではないでしょうか。
一番手っ取り早いのは、学校の保健の先生やスクールカウンセラーさんに相談することなのだと思いますが、お子さんと保健室の先生の相性が悪いとか、嫌なことがあったりすると、そこのラインは消えます。
さらに、スクールカウンセラーさんも、色々な人がいます。カウンセリング手法も様々で、考え方も色々なので、やっぱり合う、合わないがある。

そうなると、どこへ行ったらいいか、わからなくなるのです。

療育センターは、1年〜2年待ち。
精神科、心療内科にかかるハードルも、相当高いです。
(子どもをちゃんと観てくれる専門医も、本当に少ないです。)

じゃあ、どうすればいいの。

最近、気づいたというか、思っているのは、
不登校は病気 と思っている人が多いんじゃなかろうか。
病気だから、数日、数ヶ月で「治る」と思っている人がいっぱいいるのでは?

子どもが不登校になって、自分も病気になってわかったことがあります。

不登校や心の病気は、1年から、数年単位で回復を待たなければならないということ。
「治す」とか「治してやる」とかではなくて、
時間をかけて、気づいたら、「治っていた」というレベルなのではないか。

発達障害などの凸凹があれば、なおさらです。

治せる病気であれば、薬を飲んだり、治療を受けたりして、時間もかからずに回復することが多いですが、
「不登校」として子どもの中から表出してくる時点で
かなり子どもはダメージを受けているということがわかります。

ダメージの度合いは、その子によって違います。
すごく勉強ができる子でも、突然不登校になったりもします。
うちの場合は、学校生活で何か問題があったわけではなかったように見えたのですが、彼女自身の中で、長いこと葛藤状態にあったことが少しずつわかってきました。

それは、親だけの力では見えてきません。
色々な人の力を借りて、ようやく見えてきたものです。

「不登校になる理由」は、本人にもわからないのに、
親や先生が「なんで、なんで?」と問い詰めるのは、本当にキツイのだと思います。
玉ねぎの皮やキャベツの皮を、一枚一枚剥いでいくように、
ゆっくりゆっくり進まないと、本当のところは見えてこないのだと思うのです。

私自身も、心理カウンセリングを数回受けてみたのですが、
結構しんどかったです。
ダメージを喰らうというか、ガッと外側の皮を剥がされるというか、
今思えば、あまりやらない方が良かったのかなと。
(そのお陰で、わかったこともたくさんありますが・・・・)

子どもなら、なおさらです。

まずは、親以外で信頼できる人を見つける。
学校、家以外の場所を見つける。
安心できる場所で、ぼーっとする時間を作る。
少しずつ、話をする。
そのあたりから、ようやくカウンセリングができるようになるのかも。

不登校のお子さんは、
きっといっぱい嫌な思いをしたり、傷ついたり、我慢してきたのだと思います。
マイナスに振り切ったゲージを、まずはゼロに戻す。
それが、大変だし、時間もかかる。
それまでの過程を、ちゃんと踏んでくれる場所をどう探すかが、
とても大変なんです。

薬を飲んで、寝てれば治る。
根性論で、強く指導すれば、子どもは言う事を聞く。
引きずってでも、泣いても騒いでも、力づくで、学校へ連れて行く。
程度の差こそあれ、まだまだ、そう思っている先生もいるのが現状です。

サポートルームやサポートベースを利用させるのも、
「不登校の期間が長くなればなるほど、教室に戻れなくなる。」という
考えがあるからだと思ったりもしています。
それがうまくいくケースもあるのかも知れませんが、そういうところが透けて見えて「行きたくない」と感じる子もいます。

こうなってくると、
何が正解なのかわからなくなってきますが、
今当事者として言えることは、

・特効薬はないということ
・回復までには、思っている以上の時間がかかるということ
・目指すゴールは、親の希望通りにはならないということ

望んだ通りの学校生活を送れないのは、親も子どもも辛い。
望んだ通りの人生を送れないけれど、
そこから得られるものもあるはずだと信じていなければ、前に進むことはできません。
娘が卒業した高校の校長先生から教えていただいた詩があります。

病者の祈り

~ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩~

大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で
最も豊かに祝福されたのだ

http://www.chukai.ne.jp/~fungus/poem/byousya/index.htmlより引用

私も娘たちも、
今は望んだ日常、学校生活ではないのかも知れません。
でも、
いつか、その時間が、最も豊かに祝福された時間であったと思えるように
なれるといい。

「あの頃は、ああだったよね。」と
笑って話せるようになれると信じて、
進むしかないのです。



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那珂(なか)
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