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産むということ

先日、娘の誕生日を迎えた。

娘は2歳になった。

生きていればなんだけど。

娘は24週で死産だった。死因は「臍帯過捻転」である。そのため、娘の誕生日となるとどうしてもセンチメンタルになってしまう。

あのときああしていれば、こうしていれば、といつも後悔している。後悔をしたところでどうしようもないことも分かっているけれど、もしかしたら生かすことができたのかもしれない…なんて思ってしまうのだ。

異変に気付かなかったなんて母親失格だ…ときっと一生責め続けるんだろうと思う。

誕生日になると夫と当時のことを話す。

「産むのに時間がかかったね」「病院のベッド、私はよかったけど、付添人のあなたのはひどかったよね」ということに加え「娘ちゃん、可愛かったよね」である。

産むまでは見るのがとても怖かった。私のせいで、という気持ちが強すぎたからだろう。

でもポン!と産まれて先生が「見てみる?」と言ったときに覚悟を決めて見せてもらうことにした。

とても可愛かった。「かーわーいーいー‼‼‼」と叫ぶほどだ。いやもう誰にも負けないくらい可愛いじゃないか。

そんな思い出と共に「写真、撮っておけばよかったなぁ…」と話題になった。

もちろん忘れることはないけども、すこしずつ朧気になってきているんだ、と夫はいう。

確かにそうなのだ。あの時の可愛さを視界に焼き付けたけど、もっといつでもはっきりと見られるように写真を撮っておけばよかったと思っていた。同じことを思っていたんだね。

写真を撮るのは不謹慎かな、と思ってしまって撮らなかったけど、誰に対して不謹慎なんだろう。自分たちの子どもなのにね。遠慮しなくてもよかったな。誰に見せるわけでもないし。。

死産は全員が遠慮する。何か下手なことを言ってしまってはならない、という周囲の遠慮と、その周囲を心配・遠慮させてはならない、という当人の遠慮だ。と言っても当時はそんな余裕は全くないんだけど…いやホント無理だったな、いろいろと。

娘ちゃんがいた証は小さな骨とへその緒と、助産師さんが取ってくれた娘ちゃんの足型だ。足型、「こんなことしかできないのですが」と取ってくれたものだけど、あってよかった。大事な大事な宝物だ。

娘ちゃんを産んでしばらくしてから息子を妊娠した。

二度と同じことが起きませんようにと毎日祈りながらお腹の中で大事に育てた。産む数日前に小さい子に自転車でぶつけられて血の気が引いたが、そんなアクシデントにも負けず元気に産まれた。

息子には2人分の愛情をどんどん注いでいきたい。これからもしかしたらもう1人増えたりするかもしれないけど、それならそれで2人を3人分の愛情で育てていくんだ。まぁどうなるのか分からないけれど。

死産の考え方って人それぞれだと思う。とりあえず私はなかったことにはできないし、してほしくない。痛々しいと思われるかもしれないけど、娘の身長・体重でテディベアを作ってもらっていつも一緒にいる。そのベアちゃんを私たちは娘の名前で呼んでいて、ワントーン声色を高くしてお話したりする。この子を連れて槍ヶ岳にも行った。見せてあげたかった景色を見せてあげたい、これからも。息子と一緒にどこへでも連れて行こう。

これからも一緒だよ、娘ちゃん。

ちなみに、テディベアはこちらで作ってもらいました。すごく救われました🐻🐻


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