ギモーブ④ パリの中絶
フランスはカトリックの国である。ホームステイ先のマダムは敬虔なカトリック信者で、食べものを残すと異様に怒った。
「食べたくても食べられない人も居るのだから」
と言って。
ここはマダムと娘のセシル、留学生三~四人がいる下宿屋だ。住み始めて二、三ヶ月の頃、アメリカ人大学生ベスがやって来た。ベスは典型的な今どきの大学生で、部屋はグチャグチャ、食べ物の好き嫌いは激しく、よくマダムやセシルに嫌味を言われていた。アメリカンフードで育ったベスのお口には、フランスの家庭料理は合わないのだ。
「あなた本当に何も食べないのね」
とマダムに言われ、半べそをかいていたことも一度や二度じゃない。
そんな堅苦しい下宿生活をよそに、一人暮らしで性を謳歌していたひろみにも、カトリックの影響は強く忍び寄った。カトリックは性に対して超保守的なのだ。中絶可能な期間が三ヶ月で、二人の医師による診察が必要だった。
「フランスでは最終生理日から二週間後の日を妊娠一日目とするので、日本の計算の仕方とは一ヶ月の差が出ます。 したがって日本での妊娠三ヶ月はフランスでは妊娠二ヶ月となります。 このため、日本での妊娠期間は十ヶ月ですが、フランスでは九ヶ月です」
ハルが留学前に買った「フランスの暮らし方」にはこんな記述があった。
ひろみは今、妊娠何ヶ月なんだろう? とにかく、時間がない。ハルはひろみに全力で協力することにした。
パン作りで知り合った日本人の女友達にこっそり、「産婦人科知らない?」と聞いた。彼女はフランス人彼氏と付き合い、彼の両親にも可愛がられていたので、すぐかかりつけの産婦人科医を紹介してくれた。
「良かった~。あと一人」
日本人御用達のアメリカンホスピタルにひろみが問い合わせると、塩対応だったそうだ。この病院は日本人医師と看護師がいるので、多くの日本人が診察に訪れる。看護師はあまりにも無防備な日本人留学生の中絶を、今まで嫌というほど面倒見て来たのだろう。
二人目もハルがフランス人医師を探し、ひろみの手術の日は決まった。ちょうどその日は、二人が通う製菓学校のテスト日だった。
ひろみは日本に住む家族にはこの話はもちろんふせていた。が、手術当日は病院への引き取り人が必要だった。ひろみはハルに頼んで来た。
「いやいやいやいや、その日はテストがある」
正直断りたかったが、とても言えそうになかった。ハルは悩んで、わざわざ実家の母に国際電話をかけ、相談した。母は当たり前のように言った。
「そんなもん付き添ってあげなよ」
さすが義理人情に厚い、下町出身の母である。困っている人を見過ごす訳にはいかないのだろう。ハルは悩んだ。テストをパスしたら落第覚悟だ。悩んだあげく、製菓学校の生徒ではない日本人女友達に頼んで、ひろみを迎えに行ってもらった。
しかし、ひろみのことが心配で、テストどころではなかった。
テストが終わってからも、ひろみの事で頭がいっぱいだった。一人では抱えきれず、ハルはこの話を同級生二人に話してしまった。
大阪出身のゆきは、東京で離婚し、その慰謝料で留学していた。
「バッカじゃない、だから胸の大きい女の子は信用出来ないのよ」
「え?!」
人を利用するときにしか近づいて来ない金持ちのサクラは、面白そうにこう言った。
「地味に見える女の方がヤリマンってほんとなんだねー」
そうかもしれない、そうかもしれないけど・・・友達のことをそんな風に言われて、ハルは辛かった。ハルはひろみに、心の中で詫びた。
「ごめんなさい、こんな悪魔二人に、ひろみの秘密を話してしまって」
意外や、同性に人気のないひろみであった。
手術の翌日、ひろみの家にお見舞いに行った。一人で行くのは何となく怖かったので、ルームメートのベスを誘った。日頃、家ではピーピー泣いているのに、この日のベスは頼もしかった。
ひろみの状況や同級生の冷たいリアクションを話すと、
「それって、ガンになったのは、タバコを吸ってたからだ、と責めるのと同じだよね」
とアメリカ人らしい例えが返ってきた。ひろみの妊娠、中絶は知らないことにしてね、と口裏を合わせ、花を買って、ひろみのもとに向かった。
「ボンジュール、ひろみ。サバ?(元気?)」
元気な訳はない。麻酔の針の跡が痛々しかった。
机の上には製菓学校のテキストがおかれ、この悪夢のような事実を忘れようとしている様子がうかがわれた。
「テストは追試、受けるの?大丈夫だよ、ひろみなら」
「どうだった?ハルは」
「う~ん、実技がね、ちょっと・・・」
実はひろみのことが心配でケーキの底を焦がしてしまったのだが、ひろみには黙っていた。
「来週、エマの家でパーティーがあるみたい。良かったらひろみも行かない?」
「行く行く」
エマとは同級生のイギリス人である。ひろみも気分を変えたいのだろう。そうしてハルもこのパーティーで、忘れられない人に出会ったのだった。
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