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パリからの卒業

三十歳のとき、大失恋をした。

日本に居たくなかった私は、パリの日本語学校へ講師募集の問い合わせをした。すると、秋に研修があるので、そこで採用になれば、と言われた。

私は早速、飛行機のチケットを予約した。研修で見事採用となり、2000年1月から、逃げるようにパリでの暮らしを始めた。

初日は友人であるフランス人のカフェに呼んでもらい、朝ごはんをご馳走になった。そこは職人が行き交う下町で、私はパリジェンヌ気分を満喫した。

が仕事が始まると、フランス語が未熟なため、寒~い冬のパリで辛い思いをした。肌は乾燥でガビガビ。仕事場では生徒からもスタッフからもバカにされる。

「人間、やめていいですか?」

私は、アパルトマンの古い鏡に向かって呟いた。

しかしせっかくパリまで来たのだからと意を決して、フランス語を一から勉強し直すことにした。ソルボンヌ大学付属のフランス語講座に、通いはじめたのだ。

女優の野際陽子さんも通っていた名門フランス語講座で、大学レベルの授業が受けられる。先生は自分の電話番号まで教えてくれ、留学生に親身に接してくれた。授業は超一流で、毎日が充実していった。

こうして、フランス語も理解し始めると、フランス人は徐々に態度を変え始める。彼らは、最初、取っ付きにくくて心を開かないが、仲良くなると、実に親密で家族的な付き合いをするのだ。

物価が比較的安く、文化芸術の類も気軽に楽しめる。また女性の社会的地位も高く、生きやすい。私は永住したいほど、パリの暮らしが好きになった。

私が住んでいたエリアからはパリのランドマーク、「サクレクール寺院」が見えた。それが日々、私を励ましているような気がしたものだ。

二年後、今度は言葉の問題ではない職場のトラブルから体調を崩し、泣く泣く帰国することになった。

そこから、長い私の「東京不適応生活」が始まる。

いつも、東京とパリを比較していた。パリに思いが残っているうちは、東京の良い点は見えない。パリという「竜宮城」から帰って来た私は、東京のすべてがつまらなく、友人とも話が合わなかった。パリの友達のSNSを見ては、落ち込む日々が続いた。

転機となったのは、それから十年後、娘の誕生だった。

小さい子供がいると、どこに行っても安全で清潔、という環境は素晴らしかった。ここには頼りになる家族や友人もいる。

娘の成長と共に、新しい人間関係や、好ましい生活環境にも恵まれた。年齢を重ねると和食がありがたいし、今では日本的なものに心震わせるときもしばしばだ。

以前は「長所しかない」パリを見ていたと思う。その「幻の」パリから、ようやく卒業出来た。

二十年前の想い出は心にしまって、成長した娘と共にいつかそこを訪ねるのを、楽しみにしている。

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