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ギモーヴ②鯖はサバではない。


                        

翌日、授業が始まった。八時半からだったので、七時半に家を出た。
「ボンジュール、マドモアゼル、サバ?」
地下鉄でキオスクのおじさんに挨拶される。私は元気よく答える。
「サバ!」
サバは鯖ではない。フランス語で「元気」の意味だ。しかしこの言葉を耳にし、口にするたび、日本人の頭には鯖が浮かぶ。鯖びやん。

パリはキオスクのおじさんすら愛想が良い。特に若い女性に対しては。
日本で失恋し、母には恋人が出来て家には居づらくなり、ここのところ恋愛に対しては前向きになれなかったハルだったが、パリでの男性の態度に少し心が動いた。
彼らはとにかく、女性に対して優しいのだ。それに対して女性はというと、高飛車に出ることが多い。それでも世界は回っていくのだから、何とも女性に優しい国だ。
そんな事をつらつらと考えていたら、地下鉄を一駅、乗り過ごしてしまった。あわてて改札口を走り抜け、学校へと向かう。左手にはセーヌ川、正面にはエッフェル塔が見えたが、眺めている余裕はない。全速力で観光地を走り抜け、ギリギリセーフでクラスに滑り込んだ。

「ボンジュール、サバ?」
担任のミッシェルに話しかけられた。彼の到着と同時に、クラスが始まった。
「今日は、〇×▼※#&%」
ミッシェルが早口のフランス語で話し始める。
「全然分からない!」
神楽坂のフランス語学校の、初級コースなかばで渡仏したハルが唖然としていると、隣りのアシスタントと思われる女性が、英語で通訳しはじめた。
「今日は、フォンダンショコラを作ります。材料は・・・」
ハルは外国人旅行者が集まるカフェで長年、アルバイトをしていたので、英語のヒアリングは何とかなった。英語も分からない日本人留学生はどうなるのだろうか。もう言葉抜きで、見よう見まねで覚えるしかない。
このクラスの日本人留学生は四人。みんな言葉が分かってるのか分かってないのか、とにかく必死の形相だった。

あっという間に午前中の授業は終わり、お昼休みになった。
ハルがカフェテリアで列に並んでいると、ひろみが声をかけてきた。
「サリュ、ハル。午前中はどうだった?」
「まあまあかな。フランス語が難しい」
「そうだね。早いよね」
苦労人のひろみはパリに来るまで三年間、銀座のフレンチレストランでフランス人シェフのアシスタントをしていたので、料理人の話す強いアクセントのフランス語にも慣れていた。
いわゆる一つの、叩き上げ。ハルとはスタートラインが全く違っていたのである。が、その事実は、随分とたつまでみんなには知らされなかった。
「午後も頑張ろうね」
お互い声を掛け合い、教室へと向かう。その力不足に、全く気づいていない、のんきなハルであった。

午後は一人でワンホールのケーキを作る、実技の実習である。
「〇×▼$%&!」
気がつくとミッシェルが真っ赤な顔をして、ハルに何やらわめいている。
「パるドン?(は、なんて?)」
アシスタントの通訳によると、
「攪拌が足らないから、ダマになっている。それでは膨らまない」
とのこと。
めっちゃこええっ。そんな感情的に怒らないでも・・・。
鬼の形相に驚いたが、指摘された点をなおし、焦って作業を続けた。
これも後から知るのだが、ハルは他のクラスメートと比べてお菓子作りの経験がかなり少なかった。パティシエとして母国で働いていたことがある者もいた。
ミッシェルの言う通り、、ハルのフォンダンショコラはあまり膨らまなかった。
「オー、マイゴッド!アンコール!」
ハルは作り直しの宿題を出されてしまった。

家に帰って、部屋のキッチンで一人、お菓子作りに励んでいると、マダムの娘、セシルが入ってきた。セシルは四十歳独身、半引きこもり生活を満喫している。
「ボンジュール、ハル!何してるの。あら、美味しそうね」
ハルが返事をする前に、セシルは作り直したフォンダンショコラをつまんでいた。
「セ ボン!(んまい!)」
学校では冷たくされたハルだったが、セシルの胃袋をつかんだことで、この家での居心地は良くなった。
「彼女はお菓子作りがとても上手なのよ」
当初警戒心が強かったマダムも、訪れる人にそう言ってハルを紹介してくれるようになった。
こうやって徐々にパリ生活に慣れてきた頃、一本の電話がかかった。
「〇×▼♪#%&」
「エクスクぜもあ?」
 それは、実に不幸の電話だったが、早口フランス語が理解できないため、その事実には、まったく気づかないハルであった。

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