ギモーヴ⑥ アデュー、パリ
「こんなことってあるんだな・・・」
と思いながら、ハルは恋に勉強に充実した毎日を送るようになった。クリスはハルをとても大事にしてくれて、ハルは恋人たちの街パリで、それまで経験したことがないような幸せを噛みしめていた。
しかし、この幸せはあっけなく、粉砂糖で作ったお城のように、崩れてしまった。
ある日、ハルが卒業試験に向けて勉強していると、クリスから電話がかかってきた。
「ハル~、受かったよ!!」
「え、何に?」
「アメリカンユニヴァーシティの奨学金!!」
「えっ、聞いてないよ~」
クリスは以前から、ワシントンにある大学のドクターコースで学ぶために奨学金選考に応募していた。その結果が今日、郵便で送られてきたのだ。
「えっ~、行っちゃうの?」
ハルは小さい声でクリスに聞いてみたが、その声はほとんど届いていなかった。クリスは奨学金が取れた喜びでいっぱい。ハルの気持ちなどどこ吹く風だ。
「一緒について来てほしい」
なんて言葉はなく、電話はサクッと終わった。
「私、このまま、振られちゃうのかな?」
ハルは不安でいっぱいだった。
翌日ハルはひろみと会って、スペイン映画「トークトゥーハー」を一緒に観た。
交通事故で昏睡状態に陥った女性患者が昏睡状態のまま、男性看護士にレイプされ、妊娠して子供を産むという、何とも不思議な話だった。
映画が終わり、二人はパゴドのクリスマスルミネーションきらめくなか、そぞろ歩いた。パリ七区にある東洋的な寺院風建物だ。十九世紀末に建てられ、現在は改築され内部は映画館として使われている。
その美しさに心震わせながら、ひろみはつぶやいた。
「ここってボンマルシェ(パリを代表する世界初のデパート)のディレクターが、奥さんのために建てた邸宅なんだって」
「へ~、そうなんだ。私達の彼氏とは大違いだね」
ハルは力なく答えた。
しばらくして、ひろみがまたつぶやいた。
「男の人って、やっぱり体目当てなのかな」
「それだけじゃないよ。私達も楽しんだじゃん」
クリスにふられたばかりのハルは、吐き捨てるようにそう答えた。
時に女の子は、ただ甘いだけの存在、ギモーブとして扱われる。フルーツピューレとゼラチンを使って作る、四角いマシュマロみたいなカラフルなお菓子。柔らかくて、いい香りがして、美しくて可愛い。男の子に、
「おいしそう、食べちゃおっかな」
なんて言われて。
でもギモーブは食べてみると、ただ甘いだけのお菓子じゃない。その中には、バラエティにとんだ確かな味わいが、しっかりと存在しているのだ。ブルーはミント、ピンクはラズベリー、黄色はレモン・・・ガツンとやられる個性を持っているのである。
ハルはひろみに、昨日の電話の一部始終を話した。
「このまま、クリスとはフェードアウトか~」
「大丈夫、大丈夫。コルドンの勉強も大変だし、男なんて、こっちから、お断りよ!」
二人はたどり着いたバーで、涙ながらにグラスを傾けた。それは決して、悲しいだけの涙じゃなかった。明日への希望を含んだ、ちょっと甘じょっぱい涙だった。
二人の涙は、水と混ぜると白濁するアニスのお酒に溶け込み、パティシエだけが知る複雑な味に、それを変化させていた。
それからあっという間の卒業試験。最終課題はフランスのクリスマスケーキ、ブッシュ・ド・ノエルだった。ひろみの家で何回も練習して、二人共、見事に仕上げた。
「ブラボー、ハル、ひろみ!」
担任のミッシェルも派手に喜んでくれた。二人はついに、コルドンブルー認定のパティシエになれたのである。
二人とも晴れ晴れとした気持ちでそれぞれのブッシュドノエルを持ち帰った。明日からクリスマス休暇だ。下宿のみんなも喜んでくれるだろう。
「クリスから連絡来た?」
ひろみがハルに聞いた。
「メールが来たよ。『元気?僕は楽しくやってます!』だって。笑った。遊びに来て~なんて、一言も書いてなかった」
「次行こ、次!」
アニスに混ぜた涙が浄化になり、卒業の喜びが拍車をかけ、二人は完全に立ち直っていた。
メトロのホームで電車を待っていると、向かい側のホームで美男美女のカップルが熱いキスを交わしていた。
「絵になるね~、パリは」
「私たちも早く素敵な彼を見つけよう!」
ホームの向こうにちょうどエッフェル塔が見えた。夕焼けを背景にしたパリの象徴はただただ美しく、まるで絵画の様だった。ハルはルーブルに佇む異邦人のように、その光景を脳裏に焼き付けた。