ギモーヴ③パリの悪夢
電話の相手は泣いている。
「パるドン? キェす?(すみません、どなたですか?)」
「あっ、ハル、ごめんね、ひろみです。今ちょっと話せる?」
地味で真面目なひろみだった。
「うん、大丈夫」
「私、妊娠したみたい」
「えっ?」
ハルはびっくりして、椅子から転げ落ちそうになってた。何故ならそれまで、ひろみには男の影が全くしなかったからである。
「ひ、ひろみ、彼氏いたんだ」
まずそこ、である。
「彼氏っていうか、私、めちゃくちゃなの・・・」
ひろみは涙ながらに告白した。
どうも、ひろみには特定の相手はおらず、いつも求められるままに色んな男と関係を結んでいたようだ。
ひろみは下宿人のハルと違って、サンジェルマンデプレで一人暮らしをしていた。異国で一人暮らしは寂しいだろうが、色んな男とは寝ちゃいかん!!
「検査薬はもう試したから、ほぼ間違いないと思う」
「そっか~」
ろくな返事が出来ないのは、ひろみ以上にハルが動揺していたからだ。パリに来て約三ヶ月たつが、日本女性のはじけっぷりに、ハルは苦々しい思いを抱いていた。フランス男は挨拶代わりにナンパしてくるが、それにホイホイ乗る日本女性もいけないのだ。ハルにも経験があった。
ルーブル美術館前の広場でフランス人絵描きにナンパされ、話すくらいならいいかと思っておしゃべりしていると、
「ビールでも飲もうよ~、日本女性はセックスが好きなんでしょう?」
とあからさまに言われ、ドン引きして走り逃げたこともあった。
こんな身近に、ナンパに乗る女がいたとは・・・。
「分かってる。私がばかだったのよ。これまで男の人に言い寄られたことなんかなかったから。人生初めてのモテ期がやってきた、なんて思っちゃって・・・」
東京で育ち、当たり前のように恋愛もして来たハルは知らなかったが、ひろみの話でやっと理解した。パリの日本女性がなんで尻軽女になってしまうのか。
地方では周囲の目が厳しく、彼氏や夫、パートナーを変えたり、とりわけ外国人男性と付き合うことは難しいのだ。地方から外国に留学すると、その鬱憤が弾ける。
映画のような舞台で、かっこいいフランス人男性にちやほやされたら、ひろみでなくともいい気になってしまうだろう。
「悪いのは分かってる。でも、こんなの若いときだけだし、日本に帰ったら最後、親はうるさいし、もう遊べないし」
ひろみは涙ながらに語った。しかし、よくよく考えると、泣きながら人に話すような話か、とも思った。ハルは、電話がかかって来る前に飲みかけていた冷たい味噌汁を、残念な気持ちですすった。
「フランス人の彼氏を日本に連れて帰って、結婚して親を安心させることも考えたんだけど、いま一つ決め手に欠ける人ばっかりで。そうこうしているうちにこんなことになっちゃって・・・」
東京で彼氏と別れ、母は再婚、男なんて面倒なだけと思っていたハルにとって、ひろみの話は衝撃的だった。だいたい、自分以上にお菓子作りに一生懸命に見えた彼女だが、どこにそんな時間があったのだろうか。
時計を見るともう十二時だ。明日もはよからお菓子作りがある。
「今日のところは遅いから、もう寝るね。おやすみ、明日話そう」
そういって電話を切ったものの、ひろみの事を考え始めると、心配でハルは眠れなかった。ひろみ、大丈夫だろうか。
次の日から少しずつ、ひろみに恋の事情を聞いた。もはや恋とは呼べないかもしれないが、ひろみにとっては立派な恋だった。ひろみも、話しやすいハルには、詳細を話し始めた。
可能性がある相手は二人いて、相手を特定出来ないことにハルはがく然とした。もちろん、本人を前にして、そんなことは口が裂けても言えない。
ひろみの説明によると、二人ともコルドンブルーの学生で、一人は裕福なタイ人、もう一人は掃除のバイトをしながらコルドンに通うチベット人だった。
「フランス人じゃないやん!! 二人とも、アジア人やん!!」
ハルは叫びたくなった。
タイ人の写真はひろみの家に行ったときにチラッと見せてもらった事がある。タイ人の”友達”とハルには説明していた。長髪のイケメンだが、ひろみの家を荷物置き場兼イチャつく場所として使っていたようだ。
話聞くだに単なるセフレ、都合のいい女くらいにしか、彼はひろみの事を考えていないようだ。でも、彼の話をする時のひろみは、怒りながらも嬉しそうだった。連絡も来たり来なかったりみたいだが、ひろみが惚れているのは分かった。
もう一人のチベット人はもっとひどかった。金欠になると「カレー作るよ」と言ってひろみの家を訪れ、食欲と性欲を満たしていたようだ。
頻度としてはタイ人の方が多いらしい。
「なんで避妊して、って言えなかったの?」
とハルが聞くと、
「好きだから、言えなかった」
と。典型的な、恋する日本人ダメ女発言だった。
「そんだったら、ピル飲むなり、自衛しなきゃダメでしょ。HIV感染だって危ないのに、命懸けのセックスして、どうすんのよ!パティシエにだってまだなってないでしょ!」
と、どやしつけたくなったが、弱っているひろみにはそんなこと、とても言えなかった。
排卵日を考えると、チベット人の方が父親の可能性が高いということで、ひろみは彼にだけ打ち明けた。
チベット人の彼は言ったそうな。
「本当に俺の子?」
しかも、ニヤニヤしながら。
「あ、そーだ、ハーバリストの薬局で売ってる中絶ハーブティを飲めば大丈夫。おなかが痛くなって、ベイビーは生まれて来ないってよ」
パリには民間療法でそういうハーブティがあるらしいが、それを用意してくれるわけでもなく、彼はひろみのもとを去って行った。
「どっちにしても、おろすしかないよね」
ひろみは中絶を決意した。