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「教職員」という立場の人たちが本当に求めているもの

こんにちは!最近、元広島県教育長の平川理恵さんがVoicyを始められたということで、理恵さんのお話に耳を傾けています。

最初に思ったのは、

「やっぱり、現場を見てきた人の言葉の裏側にはその人が見た景色が見える」

ということでした。教育って、途上国ではない限りほとんどの人たちが通過してきているものです。だから、多くの人「私にも言いたいことがある!」と話ができることでもあります。

それ自体は悪くないとは思いますが、その「教育に関すること」の中にある、「学校のこと」に関しても、(言い方は悪いですが)ズカズカと土足で踏み込んで来る人たちが多いのも事実だと思いました。

それはオランダでも同様で「学校は何故こうしないんだ?」という不満を漏らす保護者たちもいます。でも、(場合にもよりますが)最終的にオランダの保護者は少し違った進み方をすることが多いです。今日は教育に携わる人たちが本当に求めているもの、そして、オランダという国で私が見ている保護者の「リスペクト」の示し方について書きたいと思います。

「教職員」と呼ばれる人たちが本当に求めているものとは?

noteでも記事を書かれている、野本響子さん、そして衆議院議員の細野豪志さんとのVoicyで、教員の給与アップの話になりました。学校で働く人たちの不満は、仕事量に見合わない給与にあるのではないかという話の流れです。

その時、理恵さんははっきりと、
「教職員が求めているのは、給与よりもリスペクトです」
とおっしゃったのです。私はこの言葉に鳥肌が立ちました。

ここで誤解されたくないのは「リスペクトさえあればどんな仕事も死ぬ気で頑張れる」という意味ではないということです。この理恵さんがおっしゃった「リスペクト」の中には少なからず「給与」も含まれています。

つまり何が言いたいかというと、不特定多数を対象とする教育に携わっている人たちは、多くの場合、お金を目当てに仕事をしている訳ではなく、その崇高な使命に魅力と責任を感じて従事しているということなのです。そして、かくいう私もそうでした。教員という仕事を考える時、給与換算だけをして「これはコスパが悪い」と感じ、それが退職の理由になったことはありません。

オランダの教職員の人たちには「何故、教員になったのですか?」と聞くと、「お金が目当てであればこの仕事は選ばないよ」と答える人たちが一定数います。これは、裏を返せば「この仕事の魅力は"安定"や"金銭"ではない」ということです。そして、そこから何故自分が教員を志したのか、今どんなことを考えて目の前の生徒の教育活動に従事しているのか、児童生徒に望む未来、人間像とは何なのか、そのために何をしているのか…と熱く語り出してくれます。

そして、個人が抱える「崇高な使命」こそが学校教育に携わる人たちがそこに居続ける理由だと思います。

彼らが求める「リスペクト」とは何か?

では、学校教育の携わる人たちが求めている「リスペクト」とは具体的に何なのか、オランダの例をとって見てみます。

まずは児童生徒たちからのリスペクト。
基本的に、児童生徒たちは適切な指導として導けば、とても普通に学校教育に携わる人たちをリスペクトします。私たちが思う以上に、児童生徒は「人」をよく見ていて、自分に向ける眼差しや声掛け、雑談や関わりの中で「自分の成長を願ってくれる人」として周囲の大人を見ます。そういった意味で、学校教育に携わる人々の羅針盤が狂っていなければ、児童生徒からのリスペクトは得られます。

一方で、保護者は少し異なります。児童生徒から耳にする「学校の人たち」の話は一次情報ではないがために、それを理解する時に誤解を含みながら理解することもあるでしょう。また、誤解ではなく、実際に不適切な指導だと感じる行為を、自らの子どもが経験している場合だってあると思います。

しかし、私が見るにオランダでは全体的に学校教育に関わる人たちは保護者から「リスペクト」を表現されていると思います。もちろん、個人によっては「不十分だ」と感じている人たちも多いかもしれません。でも、日本で生まれ育ち、学校教育に携わっていた立場からすると、オランダの教育活動への保護者の関わり方は、多種多様で、一つ一つが濃いです。

それはどんな部分でか?視察先の学校からの情報や個人的な経験から紹介します。

  • 保護者のボランティア参加(具体的に書きます)
    → クラス代表(担任と保護者の連絡係)への積極的立候補
    → クラス副代表(クラス代表の補助)への積極的立候補
    → 水泳の授業の引率(学校と公共プールの引率) ※学校による
    → あらゆる季節イベントの学校デコレーション(年に3〜4回)
    → 校外学習の引率(年に5〜10回/1回につき保護者2〜3名)
    → 保護者による出張授業やWSの実施
    → 交通当番
    → 学校行事での手伝い(1回につき保護者2〜3名)

  • 学校教育活動への進言と具体的な解決策への指標づくり

  • 「先生の日」のプレゼント贈呈

  • 先生の誕生日にプレゼント贈呈

  • 担任の妊娠等がわかればプレゼント贈呈

  • コロナに罹患したらお悔やみのプレゼント贈呈

  • コロナから復活したら「おかえり」のプレゼント贈呈(笑)

非常にランダムに思いつくままに書きましたが、これらは私が娘の小学校で経験した「先生への感謝の気持ち」や「リスペクト」を表現するための方法です。正直、書ききれていない部分もあるので、実際はより多くの行事やイベントに保護者がサポーターとして関与しています。

もちろんこれらは学校によります。なかなか保護者が積極的ではない学校もあるでしょう。しかし、2023年に発表されたオランダの小学校の教職員の仕事に対する満足度は全体的に90%を超えています。詳しくご覧になりたい場合は、教育新聞に寄稿した記事をお読みください。

「やってもらって当たり前」は論外

専業主婦(主夫)の人たちが不満を漏らします。
「毎日、家で家事をすることを当たり前だと思うな」と。
一方で、多くの専業主婦(主夫)の人たちは、

「専業主婦の時給を換算すれば、1,000万を超える」

と言われて、そのお金がもらえればいいのか?と聞かれたら「そういうことではない」と思うのではないでしょうか?

「そんなつもりで(お金が欲しくて)私たちの家のことをやっている訳ではない」

まさに、学校教育に携わる人たちの気持ちはこれに似ていると思います。では、学校教育に携わる人たちの気持ちが落ち込むとすれば、やりがいを感じられなくなったり、虚無感に苛まれたりするとすれば、それは教育へのサポートが不足していると感じている部分が大きいと、個人的には思います。(もちろんそれだけではありません)

そして「サポート」とは、「具体的な行動を伴った感謝の言葉」です。教育活動に介入して、一緒に考えてくれることです。文句を言うだけではなく、問題解決へと向けて伴走してくれる人としてそこにいてくれることです。果たして、この記事を読んでくださっている人たちはそういう気持ちで学校教育の「サポーター」になろうとしているか問うてみて頂きたいのです。

問われるのは「保護者」の主体性(かもしれない)

正直、今の日本の学校は専業主婦と同じだと感じます。
「やってもらって当たり前」だと言われて、思われて、とても辛い思いをしている部分が、高圧的な指導になったり、不適切な関わりになったりしているのかもしれません。

時々、私のSNSには「日本の教育がもっと良くなって欲しい!」というコメントを本当にたくさん頂きます。私は思います「良くなって欲しい」ではなく「良くなるように(私が)行動します」の間違いではないか、と。

誰かに何かを期待をすることは結構ですが、それは誰のことを指しているのでしょうか?誰に、どんな行動を期待して、それはどんな変化をもたらすと考えているのでしょうか?架空の人ではないでしょうか?

架空の話をする時はとても楽です。でも、実現の可能性は低いでしょう。
そしてまた漏らします「いつになったら変わるんだ」と。
誰かに何かを期待している間は何も変わりません。何故なら、その「誰か」もまた「誰かやってくれないかな〜」と言っている可能性があるからです。

先日、娘の小学校で彼らが学んでいるテーマに合わせてお寿司のワークショップを開催しました。

私たちは「主体的な保護者」でいることを諦めたくないと強く思いました。先生たちが「困った時に助けてくれる人たち」を思い浮かべた時、そこにすぐ保護者が出てきてほしい。

それが、私たち保護者が先生たちに「リスペクト」を示せる方法だからです。

「先生、いつもありがとうございます。何か困ったことがあればいつでも頼ってくださいね。一緒に考えましょう!」

もしガチガチに固まった先生たちのドアがあるとすれば、この言葉がそのドアのロックを少しずつ外す言葉なんじゃないかと思っています。

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三島菜央<🇳🇱オランダ在住/元高等学校教諭>
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