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「不安」や「恐れ」を根源としない生き方や子育てを選ぶ

前回、"shadow education(影の教育)"についての記事を書きました。

今回は、子どもの教育に全力を注ぎ、「我が子に最高の教育と環境を」と励む人たちが「実は人を、社会を信じていないのではないか?」ということについて書きたいと思います。このマインドが実は「我が子だけは何とか…」という気持ちにつながっていなくもないのでは?という考察です。そして、このマインドは"shadow education(影の教育)"へと近づいていく気がしています。

「我が子には先が見えない時代を賢く生きてほしい」

先日、SNS上で子育てコンテンツを発信している方々の対談を拝見しました。その中で、

「今の時代、何が起きるかわからないVUCAの時代だ」
「社会には罠も多いからこそ、賢く生きてほしい」
「先の見えない未来を強く逞しく生きていくためには、今教育に投資が必要」
「保護者が学び続けなければ子育ては上手くいかない」
「適切なルートにのせるよう保護者が努力しないと愛する我が子の人生が思いがけないものになってしまう」

などの言葉が飛び交っていました。
すみません、正直な感想を言います。

「しんど…苦笑」

でした。
この記事をお読みいただいている皆さんはどう感じられますか?

「疑い」や「恐れ」を根源とした子育てや教育

正直、双方の数々の言葉を聞く中で「人や社会を全然信じられないんだろうな」と思ってしまいました。また「人や社会を信じられる経験をしていないのではないか?」とも思いました。

もし、この記事を読んでくださっている人の中で、「人を信じられない」とか「社会の罠にハマってしまわないように子育てしなけえば」そういった感情や気持ち、プレッシャーが止まらない方がいらっしゃれば、この本を心からお勧めします。スピリチュアルなものではなく、歴史学者が書いた歴史学、人類学の本です。後に一節をご紹介します。

私は時々「楽観主義者」だと言われます。元々そうだったか?と言われると、10代後半から20代前半はそうでした。人との良い出会いに恵まれて、哲学書などをたくさん読んで、とても楽観的に生きていたと思います。

それから、義則に出会い、教諭として仕事が忙しくなり、人間関係が狭まり、(心から人を頼れない)孤独な子育てをするようになり、悲観的になり始めました。特に、ネットの情報に触れることが多くなり、仕事が忙しく子育てと仕事の狭間で考え方が凝り固まっていた時はピークだったと思います。仕事以外の人間関係の風通しも悪かった頃です。

今思えば、私には背中をパーンと叩いて「大丈夫、子どもの成長なんてそんなもんよ〜」と言い飛ばしてくれる人が必要でした。子どもが泣いても「大丈夫、私が見ておいてあげるから、ちょっとゆっくりしておいで!」と言ってくれる人が必要でした。

それから、オランダに移住してかつての自分、つまり「楽観主義者」だった時の感覚を取り戻すことができました。それは、仕事と家庭、育児のバランスがとりやすくなり、自分からあえて人間関係が広げるように心がけ、オランダで様々な人たちの価値観を取り入れながら、この社会に溶け込んで生きることができるようになった…と感じ始めた時からでした。

オランダに来て人との出会いや経験の出会いに恵まれてから、私の人生観や教育観は変わりました。

「今の時代、何が起きるかわからないVUCAの時代だ」
→保護者や教職員、友人知人との関係の中で、教育を(良い意味で)手放す方が子どもが逞しく生きていけるということの意味がわかりました。

「社会には罠も多いからこそ、賢く生きてほしい」
→基本的に「人は信じられるものだ」という感覚を、オランダで関わる人たちの中から学びました。また、時に騙されるのも人間らしさであると考えるようになりました。

「強く逞しく生きていくためには、今教育に投資が必要」
→教育は「勝ち抜くため」のものではなく、「善く生きるためのもの」だと理解できるようになりました。今では教育投資に(過度に)加担する行為は、社会全体の教育格差と経済格差を助長する行為でもあると思います。

「保護者が学び続けなければ子育ては上手くいかない」
→一部では賛成ですが、これがビジネス化することには反対です。「人が学び続ける」のは私利私欲や(自分だけの)子どものためだけでなく、コミュニティへの貢献のためのだと考えます。

「適切なルートにのせるよう保護者が努力しないと愛する我が子の人生が思いがけないものになってしまう」
→ 本当にそんな世界に住んでいるのか?そんなことが起きてしまうような子育てを自分がしていると思っているのか?と思うようになりました。努力が悪だとは思いませんが、熱を帯び過ぎるのは逆に毒なのでは…?とも。

「社会には罠が多い」と子どもに教えること

私がその対話の中で気になったのは「社会には罠が多い」という言葉でした。私たちは子どもたちに危機管理能力を備え付けさせたいと思う一心で、「社会には悪い人がいる」ということを教えます。そして社会の一部でそれは事実でしょう。実際に誘拐は起きているし、子どもを巻き込んだ悲しい事件も発生しています。しかし、そこで立ち止まってみてほしいのです。私たちはそもそも、ニュースでそれをみて「社会はそういうものだ」と強くネガティブな方に引っ張られていないか、と。

本当に自分の生活圏内や、周囲を見渡した時、そう思うのか。と。

「実際のところ、社会はやっぱりそこまで良いものではない」…そう思うのであれば、ネットや新聞のニュース、SNSを見ている時間が多すぎないかと自分に問うてみるのはどうでしょうか?逆に人に恵まれていないとすれば、人間関係を変えたり、環境を変えるのも良いかもしれません。もしくは、自分自身の奥底に眠っている何かが原因の可能性を探ってみても良いのかもしれません。

話は変わって、私は自分の子どもに「社会には罠が多い」と教えません。そもそも、そう思ってもいません。

何故なら、社会には罠があっても、多くはないと思うからです。罠の何倍も、何十倍も社会は素晴らしい。たまに引っかかる罠なんて、ちょっとしたハプニングイベントだから気にしなくていいと教えます。ネガティブなワードで子どもを誘導するような思考さえ私は持ち合わせたくありません。社会は素晴らしい。人には希望が持てる。多少騙されたって、周囲をよく見てごらん、そんなに悪いものじゃないでしょう?社会の価値は「あなた」が社会は素晴らしいものだと信じるところから始まるんだよ、と。

「騙される」という人間にある「人間らしさ」

しかし、実際は人を騙す人たちがいます。人を騙したり、金銭を奪ったり、いわゆる「犯罪」と呼ばれる、とりわけ人の心や身体にダメージを与える行為に及ぶ人たちがいるのです。そうでなくても、人の心に影を落とす心無い行為に及ぶ人たちもいます。でも、それは「社会の全て」ではありません。

先にご紹介した本にこんな一節があります。

1 疑いを抱いた時には、最善を想定しよう  
 わたしが自分に課した最初の戒律は、実行が最も難しいものでもある。第3章で、人間は互いとつながるように進化したことを述べたが、そもそも、人とのコミュニケーションは難しい。

 例えば、あなたの発言が誤解されたり誰かにばかにされたり、あるいは人づてにとても不快なコメントを聞いたりする。どんな関係でも、たとえ長年の夫婦であっても、人が自分をどう思っているかはわかりづらい。 そういうわけで、わたしたちは推測する。たとえば、同僚に嫌われているのではないかとあなたが思ったとする。すると、それが事実であってもなくても、あなたの行動は変わり、同僚との関係はぎくしゃくしてくる。第1章では、人間には「ネガティビティ・バイアス」があることを述べた。ゆえに、たった一つの不快な意見が10の賛辞より強く心に刻まれる。

 また、疑いを持つと、最悪を想定しがちだ。 その一方で、わたしたちは「非対称フィードバック」と呼ばれるものの犠牲にもなる。それは、誰かを信用しすぎて、後にそれが見込み違いだったとわかることだ。たとえば、親友だと思っていた人があなたの老後資金を盗んで国外へ逃亡したり、家をずいぶん安く買えたと思っていたら欠陥住宅だったり、テレビショッピングで買った筋トレマシンを六週間使っても、宣伝していたようには腹筋が割れなかったり、といったことだ。人を信用しすぎると、痛い目にあう(注1)。 だからといって、誰も信じないことにしたら、その判断が正しいかどうかは決してわからないだろう。なぜなら、フィードバックを得られないからだ。

 たとえば、あなたがブロンドのオランダ男に騙されて、二度とオランダ出身のブロンドは信じない、と心に誓ったとする。残りの人生、あなたはブロンドのオランダ人すべてに疑いの目を向け、彼らの大半はきわめて正直だという真実を知ることはないだろう。 では、誰かの意図が疑わしく思えたら、どうすればいいだろう。 最も現実的なのは、善意を想定することだ。つまり、「疑わしきは罰せず」である。たいていの場合それでうまくいく。なぜなら、ほとんどの人は善意によって動いているからだ。そして、誰かがあなたを欺こうとしている数少ないケースでは、あなたの非相補的行動が相手を変える可能性が高い(注2)。(強盗を企てた少年に夕食をごちそうしたフリオ・ディアのように)。
 
 しかし、それでも騙された場合は、どう考えればよいのだろう。心理学者のマリア・コンニコワはプロの詐欺師に関する魅力的な著書でこの件について語っている(注3)。「常に警戒しなさい」というのがコンニコワのアドバイスだと、あなたは思うかもしれない。そうではない。彼女は詐欺やペテンの研究の第一人者だが、出した結論はそれとは大違いだ。時々は騙されるという事実を受け入れたほうがはるかに良い、と彼女は言う。なぜならそれは、他人を信じるという人生の贅沢を味わうための、小さな代償だからだ。
 
 わたしたちのほとんどは、信じるべきでない人を信じたことがわかると、恥ずかしいと思う。しかし、もしあなたがホッブズ流の現実主義者なら、人を信じたことを少し誇らしく思うべきだ。さらに言えば、もしあなたが一度も騙されたことがないのなら、基本的に人を信じる気持ちが足りないのではないか、と自問すべきだろう。

希望の歴史(下) -人類が善き未来をつくるための18章-

実は、私はオランダに来てすぐ、鍵の修理工に騙されました。それで、約7万円ほど騙し取られたのです。イタリアに旅行に行った時もスリの被害に遭って、約5万円ほど失いました。(色々忘れていますが。笑)金銭的な被害や精神的に落ち込まされるような事態に遭ったことは他にもあります。

もちろん当時はヘコみます。自分を責めます。相手を恨もうとします。でも、それは長続きしないようになってきました。何故なら、それ以上に素晴らしい経験があるからです。

そして、人を責めるのではなく「何故、その人はその行為に及ぶ必要があったのか?」と考えるようになりました。「その人(罪を犯した人)」だけの問題なのか?と。

人と関わり、コーヒーを飲んだり、飲みに出かけたり、立ち話をしたり、面白い話を聞かせてもらったり、笑わせてもらったり、日常生活の中で助けられ、時に誰かを助け、お礼を言われて、ハグをして、「人生って素晴らしい」とか「人って信じられる」とか「1人で生きているのではない」と思えるような人生や暮らしを人に与えられていることがわかっているから、ちょっと誰かに騙されたって、そんなことでへこたれる暇も、必要もなくなります。

そしてこれは「人と関わる」ということを積極的にしている人たちの特権でもあると思っています。そして、私が思うに、オランダの人たちはその関わりがとりわけ特別なことではなく「当たり前」のものとして生きているからこそ、前向きに、楽観的に生きていけるのだと思います。

「人を騙してくる人たちはいる。それは悲しいことだけれど、私(たち)はヘコたれない。何故なら、その何倍も、何十倍も人生は美しく楽しいと思わせてくれる人たちの存在があることを知っているから」

私がこの国で学んだのはこの精神です。

そして、孤独な人はそうは思えないと思います。何故なら、そう思わせてくれる人たちに多く出会っていないからです。

自ら積極的にご機嫌でいること

私たちが人を信じようとする時、まずは自分の精神状態が大切かもしれません。先日読んだ「運転者」という本にも同じようなことが書かれていました。自分の精神状態次第で、同じ景色を見ても考え方が変わることもあると思います。

だからこそ、私は「自らを積極的にご機嫌でいるための習慣」を心がけています。相手が、社会が、世界がどうであっても、私はご機嫌でいる。そのために始めたことの1つがフードバンクのボランティアでした。もしご興味があれば、Voicyのお話を聞いていただけると嬉しいです。

誰かに何かを期待するのではなく、私が主体的にご機嫌でいるようにする。
私は、それが社会を明るくする小さくて、でも確実な一歩なのではないかと思っています。スクリーンの中にある社会ではなく、目の前にいる、周囲にいる生身の人たちと対話してみましょう。「人は信じられる」と思い始められるのではないでしょうか?


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🇳🇱三島菜央<現地小学校TA/ET|元高等学校教諭>
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