自然地理学と防災
普段、仕事柄、趣味柄?!、
スピリチュアルなことばかりやっている私だが、こうしたハッキリとした答えの無いものだけを扱っていると、何を言っても確固たる正解が無いので、ある意味何を言っても正解となってしまう現状に、
あくまで自分自身への自戒も含めてなのだが、こうしたセラピスト系の同業の人の言動を見ていて、「いい加減、これは飛躍し過ぎだろう」、と思うことが多い。
とある自称霊能者が、
「あなたの過去世はエジプトの女王!。だから、今あなたは会社で働くのが嫌で当然なんですよ!」。
などと、子どもじみた透視を「カウンセリング」と称してビジネスにしているのを見ると、過去世なんかに当たりも外れも答えは無いから、相手に信じて貰えばそれで成立してしまう。
しかし、それ自体がエンターテイメントとして相手を楽しませているからそれで良いのだ、と、
高額な料金を支払わせてセミナーを開催する人達が増えている。しかし、参加している人もそれで満足している場合、ビジネスとして成り立っているので、何一つ問題は起きて来ないのだ。
そこを狙ったスピ系隙間産業の多さに辟易とする。
そんな「スピリチュアル」な業界に自分も半分存在している。だからこそ、こうしたスピリチュアル業界の無法地帯だけに漫然と存在するのはやめて、
私は、アカデミックな場で、確固たる学説を固めるために、地理の研究を行っている訳だ。
つまり、天(スピリチュアル)と地(地理)、両方の専門家である。
地理と言っても様々な分野があり、その中で関連している現在は、地球科学系に関するレポートを作成している。
自分自身としては、単に地球創生の歴史や、地形の変化に伴う、例えば過去の堆積調査をして結果を出す…というだけで楽しいのだが。
しかし、地学系、自然地理系の研究は、それをどう人間生活に役立てるか?を求められており、それを役立てるとする場面は、地政学的方面を除くと、環境保護と防災という二本柱から抜けることは難しい。
今年初めに能登地震が発生したこともあり、自然地理の専門家には、益々、防災の面から見た地理という分野に期待されている雰囲気が出て来ている。
自然地理学を学んだ者が防災について語る価値とは、単に市民に対して「ハザードマップを見ろ」だの「備蓄を備えて!」と言うだけでなく、
さては宇宙で地球が出来上がり、その後地形が出来上がり、生命、人類誕生までを把握した上で、ある地域の地形や地質の成り立ちを含め、とある地域を細かく把握している者が防災を語ると、防災という側面だけだなく、
宇宙の大きなスケールからその地域が出来上がって行くまでの土地の変化を理解出来る。そこから災害の歴史につながり、過去の災害から今後の傾向を知ることが出来る様になる。
では、地理学から見た防災予知や教育とは、どんなものであるのか?。
防災とは、「いつ」「どこで」「どれくらい」というキーワードで見つめていく。
例えば
地震予知の場合、
●いつ ✖️
●どこで ◯
●どれくらい ◯
津波
●いつ ◯
●どこで ◯
●どれくらい ◯
火山噴火
●いつ ✖️
●どこで ◯
●どれくらい ✖️
と、予測可能度はばらつきはあるものの、地形や堆積物の調査で過去の災害を調査することで、被害の想定はある程度可能である。それらが緊急地震速報や、ハザードマップ作成等の助力となっている。
しかし、市民へいきなり防災を訴えたとしても、その多くは「予測」を知りたがる傾向は強いが、現実的にハザードマップをチェックしたり、耐震工事に着手する人は少ない、という現実がある。
つまり、知識では分かっていても、面倒だったり費用がかかる様なことは、わざわざしない、出来ないのだ。
研究者の役割としては、市民に対してこうした現状に直接言及することは無く、データを揃えたり論文を書く所までで役割を果たしている様にも見える。
だがしかし、役に立っている論文を出すことと、その効果が一般市民を「救う」という所まで到達しているのか?というのは、その意味は、何がどれだけ?と考えると、
まだまだ直接的な効果は薄い様に思える。
また、こうした自然災害の想定であるが、
被害が起きてからでは遅いという行政、市民の不安から、被害の最大クラスでの想定を求められることがある。しかし、最大クラスへの備えをするのは結局は自治体や住民なので、あまりに大きな見積もりであればそれに対する備えに大きな負担が生じてくる。
市民感情については、大き過ぎる災害の想定は、諦めに繋がったり、ハード面では新たな避難棟の建設など、費用が莫大になってしまうという問題がある。
しかしながら、河川氾濫では、最大クラスの想定のお陰で被害規模が小さく済んだ事例もあり、
信頼性の高いデータを地道に積み上げることが良いのか?、
とりあえず、大きめの想定をしておくべきなのか?
については、研究者、行政、市民それぞれの考えについて、まだ統一されて見解がされていない現状がある。
教育という面では、近年、神戸淡路大震災、東日本大震災を経て、「防災意識」という言葉が一般化した。
防災を意識することに関して、地理学の観点から言及出来る部分とは何か?
あくまで地理学の観点からすると、宇宙、地球、日本、都道府県、市町村、自分達の地域…という流れで全体から見た自分の住む地域を意識してもらえたら、と思う。
具体的には、ジオパークでその地域の特性を知ってもらったりするのも良いだろう。
学校では、災害について学ぶ際、自分の住む場所の地域全体の地形発達史や災害史を学び、20〜30年先を見据え、「自分のこと化」として考えることが重要である。
地理学を学んで来た者が、一般市民の防災意識を上げることで出来ることとは、その地域の特性を地形や歴史を踏まえて伝えることであり、
地形、地質、歴史を見る目をもった者の人材育成をすることである。
それは、結局は、私たち人間は一体どんな星で、どんな歴史を経験して生まれて来たのだろうか?という、地球と人間の関係を学ぶことである。
つまりは、自分の周りの小さな範囲や物だけを見るのではなく、また、災害だけを見るのでもなく、
広く全体的に、そして長い歴史という大きなスケールで物を見ることが大切であると伝えたい。
つまり、木を見て森を見ず という現象に陥ることが無い様に。
地球上から人間を取り除いた場合には、災害というものは存在せず、人間が災害と捉えているものも、地球からすれば深呼吸や寝返りであるという様な視点もまた、自然地理を学ぶ者が伝えて行くべき大切な要素なのではないだろうか。
冒頭の話に戻るが・・・
こうした科学の現実を無視し、スピリチュアルの不可思議さだけを、まるでエンタメのごとく売り物にしている様々なビジネスの多くは、私には理解不能だ。しかしそれをエンタメとして楽しんでいる観客がそこに鑑賞料を支払うのは何の問題もない。
まるでサーカスや昔の催眠ショーの様である。
だが、ビジネスのみならず、本気でスピリチュアルで人を救いたいならば、
現実からの科学的追求(地)と、人智を超えた領域(天)の研究、その両方から挟んでプラスとマイナスの磁場のバランスが取れて、その中間に立つことが1番大切である。
全てに陰と陽が存在する為、現実だけ、または
スピリチュアルだけを人に施したとしても、物事を実現化する段に於いては全く役に立たない、と私は考える。
震災を例に取れば、真っ先に必要なものは現実的な救助や物資の供給である。震災直後の現場にスピリチュアルセラピストが行っても何も役立たない。
直後に家族や家を失った人に、スピリチュアルセラピストが行って何を出来ると思うのか?現実的に全く役に立たないどころか貴重な物資を消耗する邪魔な存在になる。
しかし、救助隊が、建物の下敷きになってる人に、「必ず救助するから諦めないで!」と声をかけ続けることは、非常にスピリチュアルな行為である。現実は、必ず救助するかどうか?いつ重機が到着して救助がスタートか分からない。
しかし希望を持たせて生命を維持させている。
もしも現実オンリーな救助隊なら、「そこに居ますかー?」と聞くだけで、いつ助けられるのか全く分からず気力を失う可能性もあるのだ。
どちらも出来る人が、人を実際に救えるのだ。
よって、本気で人を救いたいなら、
両方必要である。
※余談だが、スピリチュアル能力が高い人はレポートや論文を書くことは比較的楽である。読む相手が何を求めているか?を透視!出来るからだ。
2024.1.20