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纏足(てんそく)が当たりまえだった時代の話

前回の話はこちらです。

台湾総統府日本語ボランティアを務めていた林玉鳳さんの祖母は、日本の台湾統治が始まった13歳の時に初めて日本人を目にしました(1895年)。
その祖母のことを、林さんは話して下さいました。今回は纏足の話です。

「清の時代、お役人のご夫人や名望家のお嬢さんたちの足は小さいほど良いとされていました。女性は男性の添え物で、足が小さければ遠出も出来ません。3歳の時にゲートル状の長い巻物で足指をぐるぐる巻きにして発育を止めます。祖母は一般の庶民だったので、お嬢さんたちの足の2倍ぐらいの大きさになるように、5,6歳の時から縛り始めたといいます。夜になると足が痛くて泣いたそうです。体は大きく成長しても、きつく巻かれたゲートルにによって、足だけはその大きさに決まってしまうのです。縁談は足を見て決めたともいわれ、きれいに小さく纏足してあればと良いとされました。
一般庶民はヨチヨチ歩きであるけるぐらいでしたが、清のお役人のご夫人は、籠の中に乗せられていたといいます。

私は祖母の纏足を、一週間に一度洗っていました。私がそのお世話を担当したのですが、ひと仕事でした。
やり方は、
1.お湯を桶に汲んで、足をつけて、ふやけさせます。足の指が全て内側に折れ曲がっているのを、一本一本ゆっくりと外側に出します。
2.指の内側を洗います。
3.そして爪を切り、薬屋さんで買ったミョウバンを指の間に丁寧に刷り込みます。親指以外の4本の指を折ります。

そして、再度巻くのは祖母が自分自身で行いました。私は巻き方の加減まで分かりませんでした。包帯よりは硬く、兵隊さんの巻くゲートルよりは柔らかい布でです。
一般庶民は黒っぽい汚れにくい布でしたが、お役人などのご夫人たちは、真っ白なゲートルに刺繡を施してあるものを使用し、応接間にちょこんと座っていました。

当時台北の萬華(地名)には、清国の科挙に通った人が沢山いました。萬華はそういう人たちのお屋敷町だったのです。

祖母は、私に少しの日本語を教えてくれました。祖母がお嫁に行く前に、日本政府が来て教えてくれたものだそうです。初代の台湾総督樺山資紀(かばやますけのり)海軍大将時代のことです。

日本語の後ろに台湾語をつけて覚えるものでした

花(ハナ) フィエ ♪
鶏(トリ) グィエ ♪
赤砂糖是(ザラメ) チャースワ ♪

祖母は初孫の私が可愛くて、この日本語と台湾語の言葉を歌のように教えてくれたのです。
萬華は清の時代は都でした。清のエリートが沢山住んでいて、日本政府は統治後にその人たちを取り立てました。

清朝末期になって、清は台湾の重要性がわかり、1885年に台湾に省を設置しました。しかしそれまでは「化外の地」として、台湾を重要視していませんでした。一府二鹿三萬、と言われていて、一府(台南)に中央政府があり、二鹿(彰化県鹿港)、三萬(台北市萬華区)、鹿港と萬華は貿易で栄えました」。

【メモ:日本統治時代の台湾では、清の時代からの纏足という風習により、日本統治が始まってから10年後の1905年の時点でも、女性の約半数纏足がだったといいます。素早く歩けずに火事や台風で逃げ遅れる女性が出たり、女性の健康を害し不自由を強いたりと、この風習を時の台湾総督府は問題視し、纏足を廃止していくことにしました。1900年纏足の廃止を推奨→1906年纏足禁止規則を制定。徐々に若い人たちから纏足をしない人が一般化、となっていったのです】


次回は林おばさんの両親の話です。
母から聞いた内地人(日本人)との交流、日本人が絶対やらなかったこととは・・・

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