Naoko/日台交流コーディネーター

藤見尚子/在台17年目。北海道出身。1997年から仕事で台湾と関わり、これまで東京、台…

Naoko/日台交流コーディネーター

藤見尚子/在台17年目。北海道出身。1997年から仕事で台湾と関わり、これまで東京、台北、台中、札幌で日台交流の仕事に従事。日本と台湾の絆、北海道と台湾の交流、台湾暮らしで得た気付きなどを綴ります/北海道観光マスター、北海道フードマイスター、旭川観光大使。慶應義塾大学卒業。

最近の記事

【台湾で見かけた北海道】モスバーガーの新商品。使われた北海道の食材二つ。

台湾で「北海道」の文字が目に入ると、だいたい立ち止まって見てみる私ですが、最近はモスバーガーでこのようなポスターを見かけました。 日本名物・北海道 、「北海道鮭魚珍珠堡」「北海道起司牛肉堡」。北海道の食材を使った新商品のポスターです。 「北海道鮭魚珍珠堡」は、北海道の鮭を高温でかりッと揚げてフライにし、ブロッコリーとコーンクリームソースを載せて、ご飯で挟んでいるもの。いわゆるライスバーガー。 そしてもう一つが、「北海道起司牛肉堡」、北海道チーズ牛肉バーガー。 「鮭vsお

    • 台湾で愛され続けて37年!台中市の発祥店で、誕生秘話を思いつつ飲んだタピオカミルクティー

      日本で2018年に始まった第3次タピオカブーム。 当時暮らしていた札幌では、台湾人の女性が北大の近くでタピオカミルクティー(珍珠奶茶)のお店を開き、PARCOにも出店して大人気。雑誌では珍珠奶茶が飲めるお店の特集記事があったり、ドリンクに行列をなす日本人の姿があったりと、台湾で長く暮らしていた私としては、何とも嬉しく、誇らしいような気持ちがしていました。 しかしブームは何れ終わるもの、、「タピオカはどこへいった」、「タピオカドリンク人気はもう下火」、「タピオカは廃れた」など

      • 台湾の温泉地・礁溪にて。白いアスパラと山葵。台茶17番の名前を教えてもらって思った食の好循環。

        今年の夏、友人の計らいで、思いがけなく台湾宜蘭県の礁溪という温泉地にある旅館に泊まった時のこと。夜の食事を旅館のレストランでとっている時に、水色のポロシャツを着た、多分60歳は過ぎていると思われる男の人ー少し容貌が大仏様に似ているーが、ビュッフェの食べ物をのぞいては、足りなくなっているものを補充するよう若いスタッフに指示をしたり、お客さんのところに行って話をしていることに気が付きました。 夕食はサラダとパン、スープがビュッフェ式で、メインは自分で選ぶというスタイル。私はお肉

        • 台中JAZZフェスティバルと台中が世界有数のサクソフォン製造地となった物語

          先日の金曜日、台中で開かれている「爵士樂音樂節(JAZZフェスティバル)」へ行って来ました。既に暑くない10月の夜、金曜日ともあって、メイン会場である市民広場では、多くの人たちが音楽を聴きながら楽しそうに過ごしていました。 前の方に座って音楽に聴き入っている人、ビールを飲みながらジャズのリズムを楽しむ人、音楽そっちのけで友達と語り合う人、雰囲気を味わいに来ている人、人それぞれの楽しみ方が出来るこの音楽イベント、今年で20年目を迎えたそうです。 私が会場に着いて暫くすると、

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          そうだ、日本に行こう!を楽しむ台湾の人たち

          つい数か月前まで暮らしていた札幌では、街を歩けば至る所で外国人観光客を目にしました。 中国語を耳にすると、「台湾の人かな」と、自然と目がいってしまい、家族連れ、年配の夫婦、若いカップル等等、台湾人旅行客と分かれば勝手に親しみが湧いてしまって、「ようこそ北海道へ!」の気持ちで頬も緩むことしばしば。 そんな私が、台湾に戻ってきて驚いたことの一つが、自分が考えていた以上に台湾人の日本旅行の回数が多いと言うことでした。 義妹は、八月末の時点、今年だけで、既に四回も日本に遊びに行

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          30年前は香港が良かった。台湾を知らなかった時のこと。

          「もう2度と来ることはないな」 1994年10月4日、台湾から日本へ向かう飛行機が離陸して、島と海の境界線が次第に見えなくなった時、そう確信したことを今でも覚えています。 ついさっきまでいたその南国に、私は何の特別な感情もなく、三日間という短い滞在を終えて、 旅の少しの思い出と、沢山のお土産をカバンに詰め込んで、翌日からの日常に思いを馳せていました。 その旅は、私の初めての台湾。丁度30年前、職場の社員旅行でした。 「絶対香港が良かったよね」 同僚と、なぜ台湾が旅行先にな

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          日台交流の原点はここだった!台湾人の林おばさんのリアルな記憶ー今はもうない、台北の下町で、日本人と台湾人が和気あいあいと暮らしていた光景ー

          台湾総統府で「語り部」として日本語ボランティアをしていた林玉鳳さんのことを、前回書きました。 今回は、日本統治時代、台北の下町で日本人と台湾人が仲睦まじく暮らしていた様子を詳しく書いた、林さんのエッセイをご紹介します。 (林さんは日本語で書かれています) 台北の下町         林 玉鳳 台北市の発祥地、萬華で生まれ育った私の物心ついた頃は「東京音頭」が流行中で、父がよく新公園で踊ったのを記憶しております。 家は南向きで左隣から東は内地人(日本人)の町、仕出し屋、割

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          台湾総統府でボランティアをしていた林玉鳳さんの日本への思い。「私は戦争の後、自分の誕生日をお祝いしていないの。なぜなら・・・」

          何を書き始めようかと思ったときに、真っ先に書き留めたいと思ったのが、林玉鳳おばさんのこと。 私が結婚して台北に暮らし始めて間もなく、台湾総統府で日本語ボランティアをしていた林おばさんと出会いました。 林おばさんは、日本統治時代の1928年(昭和3年)に台北市の萬華で生まれ、台北で日本人経営の呉服店で働いていたことのある方。そのお店は、福井県から渡台した「松井呉服店」とお聞きしています。 林おばさんはいつも流暢な美しい日本語で、かつての日本人の台湾総督のこと、台湾が日本だっ

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          台湾より、初めまして。

          初めまして。 日台交流コーディネーターの藤見尚子です。 これまで東京、台北、台中、札幌で、「日本と台湾の交流」に係る仕事に従事してきました。 仕事の内容は多岐にわたってきたのですが(下に詳細を書きます)、どの仕事にも共通している目的が、日本と台湾を結ぶこと、日台の相互理解を深めること、日台の友好を促進すること。 そこで私は、「日台交流コーディネーター」を自分の肩書としています。 私と台湾との関わりは、20代後半の1997年から始まり、既に27年以上の年月が経ちました。