日台交流の原点はここだった!台湾人の林おばさんのリアルな記憶ー今はもうない、台北の下町で、日本人と台湾人が和気あいあいと暮らしていた光景ー
台湾総統府で「語り部」として日本語ボランティアをしていた林玉鳳さんのことを、前回書きました。
今回は、日本統治時代、台北の下町で日本人と台湾人が仲睦まじく暮らしていた様子を詳しく書いた、林さんのエッセイをご紹介します。
(林さんは日本語で書かれています)
台北の下町 林 玉鳳
台北市の発祥地、萬華で生まれ育った私の物心ついた頃は「東京音頭」が流行中で、父がよく新公園で踊ったのを記憶しております。
家は南向きで左隣から東は内地人(日本人)の町、仕出し屋、割烹店、下駄屋が並び、右隣から淡水河までは、指物工場、小間物店、雑貨店が連なった台湾人の街で、内台仲良く交流しました。大家は人力車の賃貸を営んで、店子にも内地人は居ました。
商店街は「停仔腳」という義務付けられたアーケード風の通路があり、二階以上は住居になれる建て方です。台湾人のルーツである華南地方と同様で世界でも珍しい建築とされています。内地人はコンクリートの柱に木造で、台湾人は赤煉瓦の看板建築でそれぞれ二階建てが多く奥行きが深くて住居も兼ねて活気に溢れていました。
近くに西本願寺や、金光教の分院、内、台人の教会と救世軍の集会所から祷りが聞こえました。台湾人の観音寺、媽祖廟の香煙は絶えず、内地人もお参りに来ました。寄席の「栄座」は内地からの催し物で人気を呼び、松竹や東宝の封切館へ六歳上の叔母の腰巾着になり、帰りは太鼓饅頭で弟たちを喜ばせました。
日政時代には年に二度の新・旧暦のお正月お盆に呼んだり呼ばれたりしました。松の内はカルタ、双六、家族合わせなどで遊び、旧正月は祖母や母が大皿に焼米粉(ビーフン)を盛って鶏肉、揚げ物をのせてお隣の内地人のお宅へ差し上げました。お盆は灯篭流し、旧の盆は、秋田の竿灯祭に似て「たいまつ」を持ち練り歩くのです。背中合わせのお隣さんは、長唄のお師匠さんで昼下がりには三味線の音が流れてきて、午睡を誘います。
公共水道端では、内、台人交えて、井戸端会議に花を咲かせ、女性共はお互いの文化を手振り、身振りよろしく、付き合いました。
常夏台湾は、年中夜市が立ち、西門市場内のお稲荷様の境内では、香具師の呼び売り、金魚掬いで夜を更かしました。ガジュマルの大木の下で真鍮の器から細いチューブで出す冷やし飴の味は今でも忘れません。台湾人の夜市はやはり寺廟の広場で伝統料理、ラーメン、串刺しで四季折々の果物や、漢方薬売りの曲芸を内地人の親子連れも多く楽しまれました。
子供達は内、琉、台、大陸系と多国籍軍ですが、一視同仁の仲間です。かくれんぼ、カゴメカゴメ、男子はメンコに独楽廻しや竹馬で、女の子はおはじき、お手玉石蹴りで、盛り沢山の遊び方がありました。また、隊を組んで河へ「カキ船」を堤防に座ってその内のさざめきを珍しく眺めたり、小料理店の盛塩を崩したりして、子供でも女子は叱られました。その理由は後にわかりましたが・・・銭湯でも大勢で背中を流し合います。駄菓子屋は内、台人ともにあまり変わりなく、夏場は、カキ氷、トコロ天、冬はおでんに、お好み焼き、汁粉で、子供達のコミュニケーションの場でした。
私ども世代は2つの政治体制を得て、日、台、中の文化を身に付けました。差別はされましたが、日政時代は悪疫の根絶から緑豊かな街造り、厳しい衛生管理に良き法治教育と、プラスが多かったと祖母、母からの語り伝えを、子、孫や若き世代の者に語り部とならんと、毎日張り切っております。
三時間で行ける内地(日本)へは、下町の懐かしい数々を巡りたい思ひの今日此の頃です。
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