台湾総統府でボランティアをしていた林玉鳳さんの日本への思い。「私は戦争の後、自分の誕生日をお祝いしていないの。なぜなら・・・」
何を書き始めようかと思ったときに、真っ先に書き留めたいと思ったのが、林玉鳳おばさんのこと。
私が結婚して台北に暮らし始めて間もなく、台湾総統府で日本語ボランティアをしていた林おばさんと出会いました。
林おばさんは、日本統治時代の1928年(昭和3年)に台北市の萬華で生まれ、台北で日本人経営の呉服店で働いていたことのある方。そのお店は、福井県から渡台した「松井呉服店」とお聞きしています。
林おばさんはいつも流暢な美しい日本語で、かつての日本人の台湾総督のこと、台湾が日本だった時代(1895年~1945年)のことを、訪れた日本人に詳しく説明して下さいました。
おばさんにとって、総統府でのボランティは何よりの生きがい。
その林おばさんが、かつて私に話してくれました。
「藤見さん、私は戦争が終わった後、自分の誕生日をお祝いしないことにしたのよ。なぜなら私の誕生日は8月9日なの。長崎に原爆が投下された日だから」
私はこの言葉が忘れられません。
林おばさんは、日本が戦後台湾から去って行った後も、日本をかつての祖国と大切に思い、日本人と同じように、戦争により受けた日本人の悲しみや苦しみに、長い間心を痛めて下さっていたのです。
林おばさんは、かつて台湾の歴史で長い間語るのがタブーとされてきた「228事件」の目撃者でもあります。そのことはまた改めて書けたらと思いますが、今日は、林おばさんが活動していた歌詠みの会の歌集「たんがら台湾(2001年号)」に掲載された、おばさんの歌をいくつか紹介したいと思います。
・お袋の「お」抜きの味に孫たちはニコニコ忙し箸動かし居
・関白の背を流せば礼言われ刹那に涙こみあげて来ぬ
・カタカナにどんどん変わる美しき大和言葉を「何故」と問ひたき
・糸切れし凧になりたき吾と知らで「携帯あらば」と嫁らの焦る
(林玉鳳 2001年)
おばさんは、日本語を使って自分の暮らしの中で感じた思いを表現することが好きでした。おばさんが詠んだ歌はこのほかにも沢山あります。
残念なことに、おばさんは既に他界してしまいましたが、かつて日本人に伝えたいとおっしゃっていたことを、私の聞いた話やおばさんが書いたものを紹介することで、おばさんの想いを残すことが出来ればと思っています。
また引き続き書きますので、興味を持って下さった方は、どうぞまたお立ち寄りください。