集中は開くか閉じるか
みなさんは、「集中」という言葉を聞くと、開いている感じがしますか?それとも閉じている感じがしますか?「集中」は英語で 'concentrate' とか、'focus' と言いますが、'concentrate' には、concentrated juice のように、「凝縮され」たという意味もあります。それに対して、'focus' には、「焦点を当てる」という意味があります。
日本の教育制度やしつけの中で教え込まれてきた「集中する」のイメージは、'concentrate' の方、凝縮したエネルギーで何かに向かうことに近いようです。他のことを排除して、何がなんでも焦点を当てた物や事にひたすら向い続ける。この態度を示さなければ、「集中して」いないように思われ、「真面目じゃない」とか、「一生懸命やっていない」と言われかねません。ところが、この種類の「集中」は実は長続きしないのです。なぜかというと、しんどいからです。
「一生懸命」に「集中」していると、何が起こるか。まず、目が固まってしまいます。周りが目に入らなくなります。呼吸が浅くなり、自分が存在する空間が小さくなってしまいます。自分が閉じてしまい、ピンポイントしか見えなくなってしまう。静止してしまうんです。「集中」することによって何かが見えてくるのなら、このやり方では効果ないですよね。
「集中」とは、スタティック(静的)ではなくダイナミック(動的)な行為のように感じます。周りを意識しながら、一定のものにスポットライトを当てる感覚です。「今は」そこに焦点を持っていく、その周りは焦点が当たっているところよりも少し暗い、しかし次の瞬間には次の箇所や物、出来事にさっとスポットライトを移すことができる。そんな柔軟性と機敏性を持つ行為が、'focus' の集中です。そして動的であるには、生きている我々の体が主体としてそこにあるのが前提です。生きて呼吸している体が、常に息づいている物、事柄、人に焦点を当てる。意識を広げる。「集中」とはコンタクトと言い換えても良いかもしれません。
こちらの集中の仕方を身につけると、やっていることに幅や深みが出てきます。例えば、
英語の作文を勉強している時、一つの文のコンテクストが想像できるようになる。又、その文の内容を現実味を持って捉えられる。
歴史の勉強をしている時、起こった出来事を多面から見て、かつ全体の流れを、理解することができる。
友達とお茶をしている時に、短い時間の中で彼女の話をよく聞くことが出来るようになる。
婚活で、相手のコアに焦点を当てながら、いろいろな面に触れて全体像が把握できる。
会議で周りの意見を吸収しながら、自分の意見に固執することなく、自分軸がブレない。
「集中して勉強しなさい。」「集中できなければ成し遂げることができませんよ。」と、子供の頃に散々言われてきましたが、今までいかに間違って「集中」してきたかわかります。 「集中」ではなく、もうすでにあった「集中のイメージ」に自分を当てはめてきてしまったんです。「私、やってますよ」を見せる為に。
ダイナミックな集中ができる人は、いかにも「集中していますよ」という感じがしません。何も特別なことをしているわけではなく、そこにいるだけです。時々自分という灯台から、光の方向性をシフトさせてるだけです。緩んでるんです。開いてるんです。
瞑想がいつでもどこでも出来るように、集中もどこでも練習出来ます。今これを読んでいるあなたは、'concentrate' していますか?それとも 'focus' しているでしょうか?