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細胞レベルで生きる

私達は日常をなんの気なしに生きています。

なんの気なしに仕事をして、デートをして、なんの気なしにテレビを見て、お風呂に入り、食事を済ませて寝る。そんな日々の繰り返し。人生を、ベルトコンベヤーの上に乗って1から10までをほとんど何も考えずに、当たり前のようにして生きてしまう。

これで良いんでしょうか?

確かに楽かもしれません。メディアや人から刷り込まれた幸せを信じ、それにハマっていれば良しとする、外からの評価をあげることを目指して生きる人生。それが当たり前。

これで本当に良いでしょうか?

当たり前の人生を生きているとき、私達は自分の中を感じることが少なく、外へ外へと思考が向いてしまいがちです。そんな私達の心身は麻痺しています。少しでも自分を感じることがあれば、それを止めてしまう。身体から出てくるものをとめてしまう。これではロボットと同じです。感情も、思いも、考えも、感覚も止めてしまう。そして、止め続けている自分が普通になって、感覚がますます麻痺していきます。 

私はそんな状況に危機を感じています。

人間は感覚の生き物です。生まれて来た時、ほとんどの人が今から遭遇していく世界を、様々なものやことや人を「感じられるように」五感を与えられているんです。感覚で生きなくなったら身体は錆びつき、心は腐れます。生きていても死人です。 「細胞レベルで生きる」とは、与えられた生をできる限りの細やかさで感じること。それは自分に対する愛、自分の周りの生きとし生けるもの全てに対する愛です。

細やかさを感じるということで思い出すのは、ピアニストの辻井信之さんのことです。彼のピアノを聴いた時の感動は、今でも忘れることができません。大きな演奏会場のバルコニー席で、舞台からは遠かったにも拘らず、私は彼の音楽に触れて彼という人がとてもよくわかったような気がしました。ピアノの音の感覚を通して彼の心身とつながることができたのです。 

演奏が始まります。彼がピアノを弾くように、彼の演奏を感じてみようと思い、目を閉じました。座っていた私の頬を突然優しい風が撫でるのを感じました。そして花の芳しい香りが遠くからこちらに流れてきて、私の身体を包みました。彼のピアノには風景があり、私の身体はその奥深いところへと誘われていったのでした。ピアノの音で、空気が何層にもかたちづくられていき、その空気に触れた皮膚が振動し始めました。彼がピアノの鍵盤を触っているその指の感覚がそのまま私の身体にも感じられるようでした。なんていう繊細なタッチ!皮膚に刻み込まれている年輪のような何重にもあるシワの一つ一つから中に入り込んだ音は、私の体液の中を流れていくのでした。そこには彼が生きてきた人生、その中で目以外の感覚を通して体験してきた全てのものが凝縮されていました。

喜びや悲しみ、 苦悩や恍惚、流れる雲や風の音、そういった風景がありました。彼は私に、感じて生きることの素晴らしさを伝えていたのです。ピアノの音を通して。

25分の演奏中とめどなく溢れる涙。ああ、こんなに、こんなに彼は感じている!私も感じている!なんて素晴らしい演奏なんだろう!公演が終わり、私はしばし動けませんでした。と、周りを見回すと、なんだかかしこまって座っている人達ばかり。えーっ!!!信じられません。あの演奏、聴いてたの?何も感じないの?いやいや、感じているけれど、その感覚、感情に身を任せていないの?表現していないだけかな?どうしてそんなに平穏でいられるのだろう?女子トイレの中では、「あー私ノブと一緒に写真とってもらえばよかった!」なんていう声もして、切り替えが早いのかもしれないが、有名な盲目のピアニストを聴きに来ているということがステータスにでもなっているのかと、一抹の疑問を抱かずにはいられません。

感覚を研ぎ澄ます。日常生活を細胞レベルで生きる。時間をかける。小さな国土の中にいろんな生き物が密集しながら共存している日本の風土、文化には、細やかな感覚が息づいています。みんなが細胞レベルで生きたら、社会は、世界はどう変わっていくのでしょうか?

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