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食べる。
最近見ていないのでこのCOVID19で変わったのかもしれませんが、食べもの番組多い印象です。
制作費が…等様々な理由は分かるのですが。
正直見ていておいしそうと思う事が少ないのですが、それは出演者の食べ方にも理由がありそうです。
それで思い出したのが、大好きな映画監督のルキノ・ヴィスコンティが言った「食べ方にはその人がでてしまうから、私はアラン・ドロンの食べる姿は撮らなかった」というもの。
確かに他の映画で見る彼の食べ方はヴィスコンティ映画の中での彼のどの役ともそぐわないものであったので、妙に納得したのでした。
ヴィスコンティはフェニーチェ劇場に自分の家のボックスを持つ貴族でしたから、そうした「美意識」がはっきりしています。
そして彼の監督作品の中でも自らの所属階層の没落を描いた『山猫』のすごみ。今後誰にも撮れないだろうな、とみる度に思います。
あの舞踏会のシーンはヴィスコンティの知り合いの貴族の出演者が自前の衣裳で参加したそうですが、その衣裳の見事さや雰囲気、踊りももちろん見どころなのですが、何といってもダンスが一通り終わってカメラが寄っていく豪華なサロンの床の上のダンスで生まれたふわふわとした埃、このリアリティ。
バート・ランカスター演じるサリーナ公が「猿のよう」と評する女性達の集団、その背景など、自らが所属し生きてきた階層についての辛辣な視線、それでありながら全体としては耽美な没落の物語はいつ見てもこの没落した階層こそがバレエを生み、育てたのだ、という事もあって、色々考えてしまいます。
ヴィスコンティがニジンスキーの映画を撮る予定だったのが実現しなかったのは本当に残念。きっと最高の映画になったでしょう。
タイムマシンがあって過去が変えられるのなら彼に是非ニジンスキーの映画ともう一つ予定されていた(こちらはもっと具体的で残された資料が書籍にもなっています)プルーストの『失われた時を求めて』を仕上げてもらいたい。今、どれほど調べてもわからない貴族の生活、貴族ならではの視点からの映画を私はつくづく見てみたいと思うのです。
見果てぬ夢ですが。
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