好きと嫌い、純文学ってもやもやするんだ
読書が好きで、そんな本好きの仲間に会いたくて読書会に参加している。といっても、時間が合う時に行くので、数ヶ月に1回のスローペースだけれど。この前久しぶりに(コロナで最近ようやく再開したよ)本屋さん主催の読書会に行ったんだ。
今回の一冊は【車輪の下で】ヘルマン・ヘッセ。有名だけど私には馴染みの少ないドイツ文学だ。ざっくりとしたストーリーは、田舎の神童と呼ばれた少年が、国が営む神学校へ進学するが馴染めず、精神を病んで地元に帰り工場で働くも、慣れないアルコールを飲んだ帰り、川で溺れて死んじゃうという、とても辛くなる話なんだ。海外文学って、というか純文学って読んでいて苦しくなるから苦手だ。悲しさが纏わりついて離れない。
きっと、自分では選ばない小説だけど読書会を通してなら読めちゃう。同じ物語を読んだ皆と対話する時間が愛おしいから。読書会では物語を丁寧に読み解いて、少年の気持ちと彼に期待する大人達の気持ちとの距離感、少年が求めていた気持ちの拠り所は何だったのか、など参加者みんなで考えていった。そこで最終的に、救いがある話しだと落ち着いたんだ。
少年は勉強もできたが、ウサギを飼ったり、釣りをしたり自然と過ごす事が大好きだった。お母さんを早くに亡くし、お父さんは不器用な愛情で少年を見守るが、繊細な少年はもっと母親的な愛情がほしくて(無意識に)寂しさを感じている。そんな思春期の脆さそのものを抱えた少年は、最後に大好きな自然に抱かれて天に召されることは救いなのだと。
正直わからない、幸せな最後なの?…そう、物語だけ見てはわからないんだ。ヘッセは実際若い頃精神的に脆く、自殺未遂もしたらしい。普通そんなに思い詰めた作家は早くに命を経つ事が多いらしいが、ヘッセは途中で精神的にも肉体的にも持ち堪え、85歳まで生きたんだ。どんなに、どん底な時を過ごしても、きっと大丈夫、私だってこんな辛い時代があったんだよってメッセージが聞こえるんじゃないかって。
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愛情って難しいね。私は多分、愛情表現が苦手だ。「お母さん、私に興味がないでしょう?」「お母さんは私が県外に出て行っても泣いたりしなかったよね」二人の娘に言われた言葉だ。見せたくなかったんだよ、声も立てずに泣き腫らす姿を。何よりも、娘に依存しすぎて鬱陶しがられる事を恐れるてたんだ。私が母に感じた、そんな感情を。
肩に力が入ってたのかもしれない。想いを押さえつけすぎて子ども達に愛情が伝わらなかったのかもしれない。つれなさの裏側には、傷つきたくない頑なな気持ちがあったんだ。私が母につけてきたであろう傷を、周り回って受け取るのが怖かったのだ。恋愛とは違うのにさ、この想いを受け取ってもらえないんじゃないかって怯えてセーブしてたのね。
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久しぶりにぬいぐるみを部屋に飾った。子ども達が幼い頃遊ぶよう、想いを込めて作ったテディベアー。子ども達はみんな家を出て、思い出の品物を見たら寂しくて堪らないと思って、全て押し入れに入れてしまってたんだ。写真や子どもが描いた絵や色んなもの。でも、飾っても大丈夫だった。寂しくなるどころか、あったかい波動が部屋中を優しく包んでくれた。
きっと受け取れるより多くの愛情はいらないって、いつか言われるかもしれない。容量オーバーで溢れた愛情がベタベタして困るって。それでも、もう少し大好きな想いを放流したいな。気持ちって伝わるように努力しないと、見えにくい物だから。言葉や態度で《あなたのことが大好きだよ。とても大切だよ》と伝えていかないとね。
読書会に行って見えたのは、自分の中の弱さだった。よく読むエンタメと違って読後がすっきりしない、小骨が引っかかった感じでチクチク心が痛むから純文学って嫌い。…でも、また読むんだろうな、モヤモヤしながらね。
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