君の記憶に灯るものは?~たんたん先生の遠い思い出
たんたん!テーブルを叩く音がする。ここは病院、いつものように朝食が終わって後片付けが終わる頃、いつものように元教師、通称たんたん先生の演説が始まる。
「みなさーん、これから遠足が始まります。出発まで一列に並んで待っていてください」
「何言ってるんだ!どこにも行けるわけないやないか!」
「はいはい、落ち着いて、お口は閉じて。お利口にしていてくださいね」
また始まったとばかり苦笑いを浮かべる患者さん達。私は、たんたん先生が怒り出す前に声をかける。
「先生、遠足は雨で延期になりました。また今度よろしくお願いします」
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たんたん先生は90歳を超えてなお元気に動き回るお方だ。師範学校を出て教頭先生まで勤めてあげていた当時の記憶が残っているのだろう、集まっている患者さん達を生徒と思って指示するのが日常である。生徒といっても、10歳前後しか変わらない皆さんをそう思えるのは、認知症ゆえのものだろう。人って一番濃厚に過ごした時間にコミットするんだ、きっと。
たんたん先生が変なことしてるので来て欲しい、と患者さんに言われて慌てて駆け寄ると、ホールにあるお茶のポットを持ち上げようとしている。
「先生、危ないですよ、何をされてるんですか?!」
「あのね、これは私が学校に寄付したものですよ。返してもらおうと思ってね」と、ポットを離さない。
寄付したものを返してもらうというのも如何なものだろう、そもそもこれは病院の備品。しかも、お茶が入っているので重いし熱い。転んで火傷でもされたら堪らない。
「先生、皆さんがお茶を飲むのを楽しみにしているんです。今日だけ貸して貰えませんか?夜にはちゃんと返しますから」
そんなセリフを何度か言いお願いする態度を示すと、たんたん先生はぶつぶつ言いながらも納得してくれた。速攻お茶ポットを撤去したのはいうまでもない。こうやって、テッシュやペットボトル入れのゴミ箱(ぺットボトルを再利用するから)など色々な物がホールから姿を消す羽目になるのだ。
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そんなある日、窓の外の雨音に合わせながら病院内を散歩していたたんたん先生は、ある男性看護師を見て言った。
「あなた真面目そうに見えるけど、昔やんちゃしていたでしょう。先生にはわかるの。ふふっ、お見通しよ」
その彼は短髪、黒髪、スマートな身体つきに柔和な笑顔、老舗大手企業の役員のような物腰の柔らかさをもつ40歳。勿論、患者さんに優しいので受けも良く、職員からも信頼が厚い人物。まさかそんな事… と思っていると、いたずらを見つかった子どものようにニヤッと彼は笑った。雨音にかき消される二人の会話。後からそれとなく聞くと、それなりの反骨精神があった学生時代だったらしい。どこまでのやんちゃぶりかは残念ながらわからないけど。
雨にも負けず、風にも負けず、暑さにも、冬の寒さにも負けず教師として生きてきたたんたん先生の、人を見る目は節穴ではないのね。認知症だと思って気を抜くなかれ、その一瞬の気の緩みが本性を見抜かれているのかもしれないよ。たんたん先生おそるべし!!なのだ。
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例えば、時間が限りなくあったとしたら、たんたん先生の思い出の中に一緒に旅してみたい。当時の日本はどんな教育をしていて、先生と生徒の関係はどんな感じだったのか?何を食べて、遠足はどんな所へ行ってたのか?時代の移り変わりの1ページが覗き見れる、たんたん先生体験記みたいな。
だけど、そんな時間的余裕はないんだ。食事して、介助して、片付けて、オムツ交換、ポータブルトイレを洗浄、汚物の洗濯を持っていく。看護師さんは熱や血圧を測って処置に回り、薬の準備をしたり医師の診察につきそう。あっという間に1日が終わるの。ひとりひとりに時間をゆっくりとはさけないのが現実。その中で少しでも寄り添っていけたら、そう思うけど。
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今日もたんたん先生は元気いっぱいでみんなに声をかける。そして、ケンカしている人達を見たら「それはあなたが悪いわよ!」と相手を指刺し、説教をはじめる。職員はハラハラしながら引き離す、たんたん先生がとばっちりを受けないように。そして、その光景を見て思うんだ。
私にとって一番鮮明で濃密な記憶っていつの頃だろう。学生時代、子育て時代、それとも、それとも…今からでも記憶を上乗せできるのかな?たんたん先生はきっと教育に一生を捧げてきたのね。今でも、そう、何度でも全身でその時代を生きてるように。
これってきっと素敵なことなんだ、ねぇ、たんたん先生。