みずうみ

 午後七時、眠りへ誘う夕闇が辺りを包む。仕事以外で、この時間に外出しているのは久しぶりだ。朝から夕方六時まで講習会。これも仕事の一環だけど。帰り道、朝からの雨が水溜りとなって、覗き込む私の姿を映している。

 行きも帰りも、路線バスに乗って行く。朝と違い、空席が目立つ。誰もいない、窓際のひとり席に腰を降ろす。家路まで十五分、外の風景でも眺めているはずだった。

 気がついたら、目の前の席に男性が座っていた。なんだろう、懐かしい感じがする。ロマンスグレーになりかけの、五十代の男性。うなじから伸びる張りのある首すじ、想像より若い人かもしれない。



 窓越しに、昔ドライブインがあった街が、雨の雫と共に流れていく。初めての恋人と、クリスマスに訪れたのはこの場所。ドライブが好きで、海辺や、島の灯台や、私の知らない場所に連れていってくれた人。ふと、前の席の男性に、彼の面影を重ねてしまう。

 暗いバスの車窓に、男性の横顔が映る。眼鏡の奥の瞳は見えない。柔らかい目尻のシワに、形の良い耳は、思ったより細い。違う、別人に違いない。ふと見えた、手の指はわりと大きい。違う、そんなんじゃない。

 でも、もし、左耳の下の首筋に、ふっくらとしたほくろがあったなら…。もし、男性が振り向いて、懐かしそうに微笑んだなら…。胸の奥がツンとなる。あの頃の私は、恋が全てだった。彼の笑顔に癒され、助手席から見る景色にワクワクしていた。それ以外、何もいらなかった。



 前の席の男性は、窓の外を見ている。私は車窓に映るマスク姿の男性を見ている。だんだん、降りるバス停が近づいてくる。車内が揺れて、降りる時も横顔さえ見れない。ブザーが鳴り、ゆっくりとドアが閉まる。みずうみのような水溜りの上を、バスが通り過ぎて行く。






 雨粒が激しく道路を叩く。戻らない幻影を、消えるまで、ただ黙って見つめる。突然きた刹那さに、戸惑いながら。男性が彼かどうかだなんて、きっと、本当はどうでもいいんだ。今でも彼を好きだなんて、これっぽっちも思っていないから。ただ、狂おしい程、懐かしかった。あの日に戻りたかった。





会いたいのは貴方よりも
そばかすきにしてた日の私












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