蝶々さんの閉ざされた生〜【Opera】新国立劇場『蝶々夫人』
栗山民也演出の『蝶々夫人』は、2005年の初演以来6回の再演を重ねてきた新国立劇場人気のレパートリーだ。弧を描く高い壁に囲まれたガランとした空間には、最小限の道具立てしか置かれていない。極限までシンプルな舞台はいわゆる「日本的」な情緒とは無縁ではあるものの、登場人物は着物をきちんと着ているし、そこが「日本」であることは捨てていない。ただし、通常は桜の花が咲き乱れる春爛漫の風景のなかで繰り広げられる第1幕では舞台上に枯れ葉が積もっており、蝶々さんの「結婚」が決して彼女の人生の「春」ではないことをまざまざと見せつける。同じように第2幕も、「花の二重唱」で蝶々さんとスズキが集めるのは庭に咲いている花ではなく地面に(見ようによっては惨めに)降り積もった花びらである。
初演時の演出ノートで、栗山は自らの演出について「日本の美学にこだわることで、却って人間の裏側が見えてこない恐れがある」と語っており、むしろ、アメリカがアジア進出を始めた時代背景の中で、西洋が東洋を支配するという力関係が描かれたドラマとして描き出そうとしている。しかもそれは決して過去のものではなく、現在の日本においてまったくも同じ構造が厳然としてあるということを、舞台の中央で星条旗をはためかせることによって表している。
初演時、この星条旗がやけに目に焼きついており、その後も「新国の蝶々さん」というと「ああ、あの星条旗が出てくる」と思っていた。だが今回、もちろんそうした「社会」や「歴史」がきちんと織り込まれていることに改めて感心したものの、それ以上に強く感じたのは、これが閉じられた世界で起こった悲劇だということだ。
もう一度装置について述べると、舞台はちょうど円筒を半分に切ったような背の高い壁に囲まれている。真ん中の高いところに出入り口のような空間がポッカリと空いていて、そこに例の星条旗がはためくのだが、その空間から壁に沿って下手側に長い階段が伸びている。蝶々さんの花嫁行列はこの階段を降りてくる。舞台上には一段高く四角いステージが設けられ、そこが蝶々さんとピンカートンの愛の家となる。奥には障子もある。さらにそのステージの右側(舞台上手側)は奥に向かって降りていくスロープが設けられていて、シャープレスやヤマドリはこの坂を登って家にやってくる。つまり、この物語が繰り広げられる場所は、壁と階段とスロープに囲まれた、非常に閉鎖された空間になっているのだ。
それはすなわち、蝶々さんという女性の生が閉じられた世界にしかなかったことを表している。結婚式の時こそ親戚一同が集まったものの、叔父ボンゾの怒りによって親戚たちはそこから去っていき、おそらく二度とやってこなかっただろう。ピンカートンが出ていった後は、スズキと子どもと3人きりで、やってくるのは女衒のゴローだけ(ヤマドリもくるが彼は蝶々さんにすげなく追い返される)。蝶々さんは、ピンカートンが家に鍵をつけていったことを自分への愛の証だと語るが、見方によっては社会から隔絶された空間に閉じ込められたようなものであり、戻る気もないピンカートンにとってそのことが愛であろうはずもない。
だから、舞台には「未来」を予感させる命を象徴する生きた花々ではなく、枯れた葉や惨めに散った花びらという「過去」だけが置かれてるのだ。蝶々さんの人生は、家のために芸者に身をやつす境遇から外国人の現地妻へという、どうしようもなく閉じられたものだということを、栗山民也演出は視覚的に突きつけてくる。
蝶々さんの人生に出口があり得たとすれば、それは決してピンカートンとの未来のない「恋愛」ではなく、未来を生きる「子ども」でしかあり得なかった。だがその子どもも、ピンカートンとケイト夫妻に奪われてしまう。ラストで蝶々さんが自害する様を子どもがじっと見つめているシーンは、彼女の生に絶望的に未来が与えられなかったことを象徴しているようで、実に残酷だ。「蝶々さんの悲劇」とは「恋愛が成就しなかった」などという皮相なものではなく(恋愛が皮層かどうかは別として)、人間にとってもっとも大切な「未来への希望」が失われているということなのだ。だとすれば、その点にこそこの作品が「ジャポニスム」の呪縛から逃れ得るヒントがあるのではないかといえないだろうか。栗山民也演出の真の意義はここにあるのだと思う。
さて、今回の公演でもっとも印象に残ったのは蝶々さんを歌った中村恵理だ。これがロールデビューとのことだが、高度に研ぎ澄まされた声の表現はほとんど完璧に近い。音程が安定しているのはもちろんのこと、ピアニッシモからフォルテまで無理なく移行する発声は近年の日本人ソプラノでは随一だろう。決して声高に叫ぶのではない、抑制の効いた歌から聴き手が自然に蝶々さんの悲劇を聴き取ることができる。なかなかそのような体験をすることは少ない。最大限の賛辞を贈りたい。
ピンカートンは当初の予定から変更になり、村上公太が歌った。村上は新国立劇場の前作『ニュルンベルクのマイスタージンガー』から連続しての出演となったが、この人の持っている実力が遺憾なく発揮されたパフォーマンスだったと思う。ピンカートンという役は、軽薄でイヤなやつであればあるほど蝶々さんの悲劇が際立つというテノールにとっては損な役だが、なぜか村上公太が歌うと憎みきれない。この人の歌手としての美点かもしれない。
但馬由香のスズキも素晴らしかった。第2幕第2場に子どもを渡すよう蝶々さんを説得してほしいと言われる場面でのスズキの思いは、想像するだにやるせないのだが、それまでの抑えに抑えてきた思いが思わず迸るような表現が見事。もちろん歌唱の安定感は抜群で、特に低声域の奥行きのある響きが美しかった。
ゴローは、第1幕冒頭で登場してその歌と振る舞いひとつで舞台全体の「色合い」を決めてしまうという、とても重要かつ恐ろしい役。芸達者で経験も豊富な糸賀修平は、上質な舞台がこれから始まるなという予感を抱かせるに十分なパフォーマンスでその大役を見事に果たした。彼はとても個性的な美声の持ち主で、こういう人がゴローを歌うと本当に舞台が締まる。
こうした実力のある歌手陣に加え、下野竜也指揮の東京フィルハーモニー交響楽団が実にいい仕事をしたと思う。下野の音楽作りはプッチーニにしてはやや硬質だが、それがこの情緒を極限まで排した演出にピタリとハマった。閉ざされた世界で生き、死んでいかねばならなかった蝶々さんの「人間としての悲劇」を描くのに、その音楽が大いに貢献したことは書き留めておきたい。
2021年12月5日、新国立劇場オペラパレス。
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