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『中国のはなし―田舎町で聞いたこと』息子が父に、父が母に、母が息子に殺意を抱く、奇妙な家族の物語

『図書新聞』3630号に閻 連科著(翻訳 飯塚 容)『中国のはなし―田舎町で聞いたこと』の書評が掲載されました。図書新聞編集部の許可を得てここに掲載いたします。
 一度表紙を開いて小説の世界に入ってしまうと他の事が手につかなくなってしまうほどの面白さ。この先はどうなるんだろう、この人はどうなってしまうんだろうとの思いに駆られ、次から次へとページを捲るしかありません。すばらしい小説です。小説好きならぜったいにハマります。そして読み終えたら、最後の部分をどう解釈するかぜひ教えてください!


 すまじいまでの熱を持つ、猛烈に面白い小説だ。表紙を開くとたちまち小説の世界に引き込まれ、土埃の舞う雑踏に立ち、鮮烈な赤を目撃し、強烈な太陽の光を浴びることになる。

 まず、著者である閻連科 (エンレンカ)自身が、語り手の「私」として登場する。

 母親の誕生日を祝うために河南省の中原にある小さな町に帰省した「私」の元を、一人の青年が訪れる。青年は自分の話を聞いて気に入ったら買い取ってくれと持ち掛け、「私」の返事を待つことなく、漢詩を混ぜ込みながら見事な抑揚をつけて物語を語りだす。それは息子が父に、父が母に、母が息子に殺意を抱く、奇妙な家族の物語だった。

 中国では一九七〇年代末から一九九〇年代初頭にかけ、共産主義経済から資本主義経済に移行して外に向けて国を開く改革開放政策が採られた。国を発展させて経済大国にしようとする政治家の思惑が、金持ちでありさえすれば幸福という拝金主義の考えに転じて国中に波及し、やがて小さな田舎町の家族を狂わせていく。

 青年の一家は、汚水の河が流れ古い倉庫が立ち並ぶ小さな町の、粗末な家に住んでいる。家計を支えるのは、母親の作る白い蒸しパン、マントーを売って得るわずかな金だ。そんな一家がある日突然、立ち退きを命じられる。町の再開発のためだ。河を埋め、古い倉庫や家屋を一掃して新たに宅地を作り、富裕層の移民を積極的に受け入れて町を都市化しようというのだ。立ち退きの対象となった家の男子には、新しい家を建てるための別の宅地が割り当てられるのだが、誰がどこの土地をもらい受けるのかは役人の胸一つで決まる。つまり、賄賂がものを言うということだ。その賄賂を父親がケチったために、辺鄙な町外れの宅地しか得ることができなかった、と青年は言う。いっそ家と宅地を売ってその金でアメリカに留学させてくれれば金持ちになっていい暮らしができるのに、親父が金を出さない。親父さえいなければ――。殺意の火種は日ごと蓄積されていく。青年は斧を手にとり、毒入りの水筒を持って父親のいる場所へ向かうが……。

 話し終えて息子が帰ると、今度は青年の父親が「私」を訪ねてくる。

 自分は、スイカを売ろうとすれば雨に降られる男だ、と父親は言う。〈どこにでも金や銀が転がっている時代がやってきて、みんな落ち葉が降ってくるみたいに稼ぎまくっている〉のに、自分は〈商売をすれば損をする〉、〈犬のクソと同じ運命〉だと言うのだ。いつの間にか裕福になって偉そうに振舞う隣人の家を横目で見ながら、新たな家を建てるための廃材を毎日汗だくで拾い集めてきたのに、それも無に帰してしまった。乏しい稼ぎから溜めた金と借金とで大学に行かせてやった息子からは留学費用を出さないことで恨まれ、命まで狙われる。さらに、町一番の成功者の奥さんからこれ以上ないうまい話を持ち掛けられたのに、女房が邪魔をする。胸につかえた日干しレンガが血液に浸されて溶け、血管や体じゅうの穴をふさいでしまうような感覚に陥った父親は、人を殺したい衝動に駆られる。〈もし殺さなければ、おれは家の中で悶死するだろう〉、と。そしてマントーを作る妻のいる自宅に向かう父親の手には、知らぬ間に麻縄が握られている……。

 息子の母親が「私」の家にやって来たのは、息子と父親から話を聞いた翌朝のことだ。

 隣県から嫁いだ母親は息子とも夫とも違う口調で、自分は初めからせがれに殺意を抱いていたわけではない、親は自分の子供がろくでなしと知ったときにそういう憎しみを抱くのだ、と言う。借金し、希望を託して遠い大学にやった息子は目的を果たさず、北京で女と暮らして子を作ったかと思うと戻ってきて、今度はアメリカに留学して経営を学ぶのだと言う。そしてある日警察に連れていかれ、十日間も拘留される。母親はマントーの店を抵当に入れて金を作り、迎えにいくが、そこで息子の思いがけない一面を知る。自宅に帰った息子は、新しい宅地を売却してその金を持って町を出ると告げる。でなければ大変な事態になる、こんな息子はいなかったと思ってくれ、と。息子の不実に直面するたびに〈なんぞして死んでくれないのか〉と思ってきた母親はついに、ポンプが故障したので井戸まで水を汲みに行って欲しいと息子に頼む。死亡事故が起きて以来、誰も寄り付かなくなった古井戸に……。

 閻連科は、二〇一四年に中国人として初めてフランツ・カフカ賞を受賞しており、ノーベル文学賞の有力候補として知られているが、これまでに著書の数々が発禁となっていることでも有名だ。本書『中国のはなし――田舎町で聞いたこと』は、「すばらしい中国のはなしを語る(講好中国故事)」という政府の大規模なキャンペーンを逆手にとって書かれたもので、本国ではやはり発禁となっている。題名の通り、この小説は確かに「中国のはなし」だが、描かれているのは愚かしく強欲でみじめな、でも結局のところは憎めない、人の真の姿だ。読者が制限されることはあまりに残念だ。

 青年、青年の父親、母親からそれぞれ話を聞き終えた「私」は、近隣地域での用事を済ませるために十日間ほど町を離れ、戻るとすぐ、話の裏付けを得ようと青年の家を訪れる。しかし一家はすでに家と新しい宅地を売却し、隣県の山村に引っ越していた。実家から北京の自宅に戻る途中の車中で「私」は目を閉じ、ある家族の冬の夜の出来事を思い描く。

 最後の十二ページを、一体どう解釈したらいいのだろう。狂気の先で家族が手にしたのは絶望なのか、それとも希望なのか。そこに圧倒的な美しさを感じるのはなぜなのか。あなたならどう読むだろう。

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