浦島語り#04 別離なき浦島伝説の盛衰③
海の向こうの恋物語
前回に引き続き、古代の浦島伝承の展開をたどっていきたいと思います。「その箱」が開いたとき、いったい何が起きるのでしょうか。
連動している朗読チャンネルでは、楠山正雄氏の浦島太郎、第三部を公開しています。併せてお楽しみいただけると嬉しいです。
さて、その前に、少しだけ浦島が過ごした「海向こうの世界」での日々を覗いてみましょう。古代人たちが水平線を眺めて思い描いた仙境、それはどのような世界だったのでしょうか。
浦嶋子は不思議な女性に導かれるまま、大きな島にたどり着きます。その地は宝玉を敷いたかのようで、見たこともないほど見事な宮城がありました。女性に手を取られ、嶋子はひときわ豪勢な屋敷の門に至ります。
「竪子」とは子どものこと。7人の子どもたちがやってきて「この方が亀比売(かめひめ)の夫だ」と言い、8人の子どもたちがやってきて、また同じように言います。女性が浦島に説いた言葉によると、「7人の子は昴星(すばるぼし=プレアデス星団)、8人の子は畢星(雨降り星)」。
昴は耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。冬の星空に輝く小さな星たちのまとまりです。肉眼では6つしか見えないとも言われますが、どうやら古代においては7つの星のまとまりとして認識されていた模様。雨降り星は8つからなる星団です。前回、海の向こうが天に連なっている、という話をしましたが、このような描写からも、2人が水平線の向こうへと進んだ先に、天を思わせる不思議な世界へ来たことが感じられますね。
もう一つ、注目をしたいのが「是は亀比売の夫なり」という表現。昔の浦島は恋物語だったんです。そのことはこのさきの展開からも読み取ることが出来ます。
まるで結婚式!女性の父母はじめ、親族一同が集まって、2人が巡り会った奇跡を喜び合います。そして、宴も終わり、二人きりになったとき、嶋子と仙女は夫婦の契りを結んだのでした。
なぜ帰った、なぜ託した、なぜ開いた
夫婦となった嶋子と仙女、でもその幸せは長くは続きません。3年が経ったとき、嶋子は望郷の念に駆られます。故郷を思って涙する嶋子の姿に、仙境の人々は別れのときがきたと悟るのでした。仙女は忘れ形見にと「玉匣(たまくしげ)」を嶋子に託します。あなた様がもし、わたくしともう一度会いたいと思ってくださるのであれば、この箱はけっしてお開けにならないでくださいまし・・・・・・」
浦島といえばこのシーン。「なぜ帰った、なぜ託した、なぜ開いた」、これまで数多の人が思ったことでしょう。このどれか一つでも抜け落ちていたならば、2人は永遠に結ばれていたのでしょうか。ご存じのように、郷里に帰り着いた浦島は、その様子に愕然とします。里の様子はすっかり変わっており、もとあった家や家人もどこにも見えません。「水ノ江の浦島?なんだってそんなことを聞くのさ。ずいぶん前に海に出たきり姿を消したという話だよ。もう300年になると聞いたが・・・・・・」、見ず知らずの里人が語った言葉に浦島は狼狽し、絶望し、ひとりがっくりと砂浜に膝をつきます。そして「その箱」に手を伸ばしたのでした。
「その箱」が開いたとき・・・・・・
これまで、現在確認できる古代の浦島伝説として、『丹後国風土記』の「浦嶋子」、『万葉集』の「詠水江浦嶋一首併短歌」を紹介してきました。ただし、浦島の物語、成文化されたのはこれがはじめではないようです。というのも、『丹後国風土記』の「浦嶋子」の冒頭には、「是は、舊の宰伊預部の馬養の連が記せるに相乖くことなし。」とあり、旧宰であった伊預部馬養がすでに記した文献が存在し、それと同じ内容をもった書であるということを明示しているからです。ちなみにこの馬養が記した物語は、現在残ってはいません。こうしたことなども踏まえて、『丹後国風土記』の「浦嶋子」、『万葉集』の「詠水江浦嶋一首併短歌」については、本来当地の伝説であったものを書き起こしたとする説や、完全なる馬養の創作が基盤にあったとする説、『丹後国風土記』系と『万葉集』系は別の系統の伝説であったとする説等、先行研究において様々な考察が成されてきましたが、いまだ、どの話が先行して生まれていたのか、また、いずれかが他方の本説であるのかは未詳のままだといえそうです。
そこで、ここでは、それぞれを別個に考察してみることとします。まずは『丹後国風土記』から。
なんと、「年老いた」という表現がなく、代わりに、「芳蘭しき體、風雲に率ひて蒼天に翻飛けりき。」とされています。「蘭が匂い立つような身体」が天へと飛び去り、それを見た嶋子は、仙女と二度と会えなくなったことを悟ったというのです。「芳蘭しき體」については、嶋子の若々しい肉体を指す(つまり、それが飛び去ったと言うことは老衰を意味している)とする説(『浦島太郎の文学史 恋愛小説の発生』三浦佑之1988)もありますが、私は仙女が飛び去ったのではないかと読み取る方が素直なようにも思っています。このあと、浦島は涙ながらに歌を詠むのですが、すると、遙か遠くから仙女(神女)が芳しい声で歌って返すではありませんか。
箱の中には仙女の魂が入っていたが、開封によって2人は永遠に分かたれてしまった。天へと去りゆく「芳蘭しき體」、それを仰ぎ見て嶋子は歌を詠む。天からは乙女の返歌が響く。「大和べに 風吹きあげて 雲放れ 退き居りともよ 吾を忘らすな」、風が雲を遠くに流してしまおうとも、わたくしのことはわすれないでください・・・・・・。
叫び袖振り呼んだその名は
続いて、『万葉集』の件の部分です。
以前も紹介しましたね。玉篋を少し上げると白雲が立ち上り・・・・・・。そしてその続きには嶋子の老衰と死がはっきりと描かれています。ですが、その前に注目したいのは、わが身の元から去ろうとする白雲に対し、嶋子が取った「袖振り 反側び 足ずりしつつ」という行動。白雲は魂の象徴とも言われますが、この袖を振るとか、足ずりをするというのは、想い人との別離を嘆き、なんとかしてその魂を引き留めようとする行為。
折口信夫氏は袖を振る行為について「袖を、領巾の類のまじつくの布に代用することが多かつたので、それで思ふ人の魂を恋ひ呼ぶのであった。だから、別れる時、思ひを示す時、皆根本の目的は同じであった」としておられ(『折口信夫全集』8「東歌疎・選註万葉集抄(万葉集3)」折口信夫全集刊行会編 中央公論社 1995)、『万葉集』における例を見る限りではこの袖を振る行為は恋人や想い人に向かって行う用例がほとんどです。
また、この浦島の歌は高橋虫麻呂の作とされますが、虫麻呂の歌で「反側び」や「足ずり」がどのような使われ方をしたのかをたどろうとすると、一例のみですが、次のような歌が『万葉集』に遺されています。
船出する大伴卿を見送る船出悲別の歌です。中西進氏は「反側び」を「地上に身を投げて慟哭する」行為だとし、挽歌的表現であるとしていらっしゃいますが(『旅に棲む・高橋虫麻呂論』中西進 角川書店 1985)、これもまた、二度と会えない人との別れに身を引き裂かれそうになりながら、その人を引き戻そうとする心からの行動と言えそうです。
おわりに
禁忌を犯した浦島の元から、仙女の魂が飛び去っていった。浦島は懸命にかつて愛した女性を引き留めようと、袖を振り、身をなげうって足ずりをした。しかし、次第に彼の身体を老いが蝕んでいく。それは仙女との別離によって、時間から解放されたワタツミの国へと戻る資格を失ったためであった・・・・・・。私は古代人たちがこの物語を紡ぎながら思い描いていたのは、このような場面だったのではないかと思うのです。
またしても長々と書いてしまいました。最後までお読みくださった方、本当にありがとうございます。ちょっと古典が多くて読みにくかったかもしれませんが、お付き合いいただいたこと感謝しています。
もし、まだお付き合いいただけそうでしたら、来週も、お目にかかりましょう。それでは、また。