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浦島語り#08 あれは人魚か?サメかアシカか?

はじめに

このシリーズでは隠岐に残る浦島伝承を取り上げています。今回だけでも楽しんでいただけるよう意識して書いているつもりですが、最初からお読みになりたい方はこちらからどうぞ。

みなさん、サメやアシカって見たことありますか?

水族館がお好きな方にとってはなじみ深い存在かもしれませんね。
では、「海で」とつけたらどうでしょうか?

海遊びをしているときにサメが・・・・・・といったら、有名な映画のワンシーンを思い出すかもしれません。アシカをはじめとする海獣は・・・・・・海で出会ったらすかさずスマホをかまえて写真を撮ろうとする方もいらっしゃるでしょう。特にニホンアシカなんて最後の目撃情報からまもなく50年。もし出会うことがあれば大発見です(ニホンアシカは薄茶色をしていました。現在、私たちが水族館で目にしている黒っぽいアシカはカリフォルニアアシカです)

私の住む島根県ってこのニホンアシカと縁が深くって、世界に19体あるといわれる剥製のうち7体が島根にあり、しかも明治の終わりからしばらくの間、県立高校に所蔵されていたんですよね(ひとつは私の母校にありました)

そんなわけで、なんだか身近に感じるのに、来年には絶滅が宣告される見通しのニホンアシカ
そして、サメはといえば、こちらも海でみかけたとき、親近感が・・・・・・抱けるかというと、うーん、といった感じです。

ところが、竜宮の女性がサメ、あるいはアシカに変わったとする不思議な伝承が隠岐の島の北端に残されていました。古人はこうした生物たちの、どういう点に「女性」を重ね合わせたのでしょうか。

※ニホンアシカについて
厳密にはIUCNレッドリストではすでに絶滅した種として記載されていますが、国内の環境省レッドリスト2019では絶滅危惧ⅠA種に位置付けられています。最後の生息情報は1975年の竹島における記録で、その50年後にあたる2025年(来年!)には絶滅が宣言される見通し。
服部薫編『日本の鰭脚類:海に生きるアシカとアザラシ』東京大学出版会より

モタが岩屋か、メチが岩屋か?

さて、本題です。

前回まで、隠岐に伝わる不思議な浦島型孤立伝承「白島の赤法印」について紹介してきましたが、このお話、ざっくり言うとこんなストーリー。

源太夫という漁師が怪我した海亀を助けたことによって、竜宮城に連れていってもらう。源太夫は、竜宮城の乙姫としばらくは楽しい生活を送る。しかし望郷の思いに勝てず、再び隠岐島の中村の里に帰ることになる。乙姫とのつきぬ別れを惜しむが、途中、どうした間違いからか、源太夫はついて来た見送りの侍女と恋に落ちる。乙姫は激しく怒り、見送りの侍女全員を竜宮城から解雇し、追放する。侍女たちは、堕落してモタという鱶の一種になる。白島の「屏風ヶ岩」の近にある「モタが岩屋」は、棲む所を失ったモタがよく集まって来て、こっそりと昼寝をしたことに由来する。これを中村の漁師たちは苦もなく生け捕りにして、その肉を食べていた。

 源太夫は前非を悔いて出家し、「モタが岩屋」の前で、端坐合掌しながら石に化す。これが赤茶色をした人の姿、あるいは緋の衣をまとった僧侶に見えるところから、土地の人は「赤法印」「赤法師」「赤いさん」などと名づけている。

野津龍氏『隠岐島の伝説』を参照し、まとめなおしました。

さて、この伝承において、乙姫の怒りに触れた侍女は「モタ」になったとされています。古老たちのお話をうかがったところ、明治期から昭和初期ぐらいまでは、当地においてフカ型(シュモクザメ型でなく)のサメを「モタ」と呼んでいたようなんです。ちなみに、この地でよく見られるのは「ネコザメ」「ホシザメ」が多いとのこと。

私が当地で漁や渡船業に従事されていた方から聞き取った限りでは昭和1桁生まれの方々はそうした比較的小型のサメたちを「モタ」と呼んでいたようなのですが、昭和20年代生まれ以降の方にうかがってみると、こうした呼び名は知らないという。。どうやら昭和初期の20年で失われてしまった呼称みたいです。

さて、そしてこの伝承、侍女が身を転じた異類について「メチ」すなわちアシカとして聞いたと語る方もいらっしゃるんです。詳細は前回の記事にまとめています。

今回から数回にわたり、私なりに考察した本伝承の前後関係と成立および分化の背景についてご紹介したいと思います。

早速ですが、私はこの伝承、モタ型が先行し、そこからメチ型が分化したのではないかと考えています。その根拠の一つがこちらの釣りマップ。

地域の方からいただいたもの。○は論者による。

今から20年以上前に、当地での釣りをもっと楽しんでもらおうという思いから、漁師さんやと専業の船頭さん、観光業の方、地域の高齢者等に聞き取りをした上で、地域有志で作成したという釣りマップということで、かつてお話を聞かせていただいたおじいさんからいただいたものです。

ちょっと小さくて見えにくいと思うのですが、右の方に「源太夫」と「モタが岩屋」の名が残されています(赤丸部分)源太夫はモタ型伝承の主人公、竜宮へ行った男の名です。そして、まさにこの「源太夫」と書かれているあたりに、本記事のサムネにもしている「赤法印の巨石」があるのです。

2022年10月論者撮影

今ではほとんど語る人がいないとされている「白島の赤法印」ですが、釣りマップの詳細な磯名と付き合わせたときには伝承と地名が見事なまでに合致しています。

実は、この白島半島には同じく「メチが岩屋」と呼ばれていたニホンアシカの繁殖場もあったようなのですが、それは青丸で囲った「松島」だと言われています。

私が「モタ型」が先行したのではないかと考える、最大の根拠です。

ニホンアシカの漁(猟?)は明治大正期に盛んだったと言われますが、「メチ型」はその頃に何らかの形で混同が生まれた結果、派生したのではないかと。

そこで、モタ(フカザメ)から考えていきましょう。

この生き物のどういう点に、人は海向こうに棲む異類の女性を重ね合わせたのかと・・・・・・。

竜宮の門、その向こうには・・・・・・?

当地で渡船業をされる方や釣りを楽しむ方から聞いた話を総合して考えるに、赤法印の巨石があったエリア(源太夫と呼ばれていたあたり)は、沖合に「長島」と呼ばれる、その名のとおり横長い島があって、北西の風で海が時化ているときも、長島より沿岸部寄りの部分は比較的安全に漁も釣りもできたそうで、船外機がない時代(櫓をこいで船出していた時代)にあっても、まさに赤法印の巨石前にある岩屋をくぐり抜ける形で、漁や釣りに出ていたと言います。その岩屋は「竜宮の門」と呼ばれ、その先に漁場がありました。この漁場は悪くないながらも、時化ているとき以外にはほかの漁場を案内されることが多かったのか、お若い釣り好きの方はあまり行ったことがない様子です。もしかしたらサメ(モタ)が多くいたこともそれに影響していたのかもしれません。この地ではホシザメを中心にサメたちがよく昼寝をしていたと言われます。

竜宮の門と、その先に多くいるサメたち。このサメたちは、おそらく、ほかの魚とは一線を画するものとして認識されていたのでしょう。

『古事記』『日本書紀』をはじめとする古代の文献には、「ワニ」と読める生物が登場します。最もよく知られているものは白兎神話、いわゆる「因幡の白兎」の話ではないでしょうか?ウサギが隠岐へ渡ろうと「ワニ」を騙してその背を跳び跳び海を越えていくが、あと少しというところで「ワニ」の怒りを買い、皮を剥かれてしまうあの神話である。『古事記』や『因幡国風土記逸文』などには「和邇(わに)」と書かれています。

また、これは私の郷里の話なので紹介するのですが、天平五年(七三三)『出雲国風土記』の安来郷の条には毘売崎伝承が記述されています。

天武二年(六七四)年七月十三日、語臣猪麻呂の娘が、中海にのぞむ毘売崎の浜辺で「和邇」に襲われ命を落としたため、猪麻呂は復讐を誓い、神仏に祈りを捧げてその敵の行方を尋ねた。すると百余の和邇が一つの和邇を囲むようにして姿を現したため、猪麻呂は取り囲まれた和邇を娘の敵であるとして矛で突き殺したという。この故事による風習は、月の輪神事と称され、今日まで継承されている。

『出雲国風土記』の記述および、しまね観光ナビ「月の輪神事」を参考にまとめなおしました。
https://www.kankou-shimane.com/destination/20346

これら古代の文献に登場する「ワニ」を実在する生物と比定するとき、その生物の正体については諸説ありますが、なかでも有力といえる説が「サメ」です。『古事記』や『日本書紀』にあっては、海幸山幸神話で、わたつみに行った山幸彦を送り届ける役目を担ったのが「八尋和邇(やひろわに=八尋の大きな体をもったワニ)」でした。※「和邇」の表記は『古事記』による。『日本書紀』には「鰐魚」と記載。

この「ワニ」が今日わたしたちが目にすることのできる「サメ」と同じものを指しているかは定かではありませんし、まして隠岐で「モタ」と呼ばれているサメと同一視できるかどうかを決定づけるには慎重になる必要がありますが、もし同一の生き物と考えることができるのであれば、客人を竜宮から送り届ける役目を「ワニ(サメ/モタ)」が担ったという点で、海幸山幸神話と赤法印伝承に共通性を見いだすことができ、これは大変興味深いと考えています。

サメの生息地や漁場といった現実世界の事情のみならず、古代海人や漁撈民の信仰をも映し出している可能性があるのではいかと考えられるからです

長くなりそうですので割愛しますが、矢野憲一氏は『ものと人間の文化史 35・鮫』(一九七九年 法政大学出版局)において、「日本神話に類する伝承のなかにあっては、サメを龍宮の使いとして語るものがいくつも存在する」とされ、いくつかの話を紹介されています。

サメに重ねた異類の女性

最後に、蛇足になるかもしれませんが、サメのどういう点が「竜宮の侍女」を思わせたのかについて。

モタ型伝承においては、「モタが岩屋」が恰好の漁場になったと語られています。モタにその姿を変えられ、竜宮を追放された侍女たちは、岩屋に集っては昼寝をしていたため、漁師たちに釣りあげられてしまったというのです。

一部のサメは明らかに活動休止の睡眠状態を見せることがあると言われていますが、日中は洞窟や穴などに集まって静かに休息しているとされるこの生態は、「昼寝」と言われる状況に通じるものがあります(隠岐のサメたちがそうした生態を有する種なのかどうかは未詳ですが・・・・・・)

それ以上に私が気になっているのは、サメの繁殖について。

サメの多くは卵胎生あるいは胎生であり、いずれにしても外から見た様子は卵ではなく、親そっくりの外形を有した子ザメを生むように見えるといいます。卵や子を生む準備ができると、浅くて暖かく、小魚やえさになるものが豊富にある「育児場」に移動をするそうなのですが、モタが岩屋はもしかしたらそうした「育児場」としても機能していたのかもしれません。

当地でよく見られるというホシザメはシュッとしてどことなくかわいらしい外見。漁や釣りでは厄介者であっても、子育てをしているのであれば、どことなく女性性を見いだすことができ、なんらかのストーリーをそこに思い描くことができたのではないか、などと考えているところです。

おわりに

いかがでしたでしょうか?

まだまだ考察の足りないところもあるかと思うのですが、今、私が一番の情熱を注いで追いかけているこの伝承、当地の地形や釣りの実態、海の生き物の生態などを調べれば調べるほど、面白さが増すように感じられます。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。次回はニホンアシカ編!?ニホンアシカもこれが、面白いんですよ。また来週、お目にかかりましょう。

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