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熊本城【熊本県熊本市中央区】

はじめに

戦国武将の加藤清正(清正公)が築城し、江戸時代は肥後藩の藩主である細川氏の居城であった熊本城。別名、「銀杏城」とも呼ばれます。
築城に当たっては、石垣に反りをつけ、上部にいくに従って垂直に近くなる「武者返し」という構造にし、西南戦争においては熊本城を包囲しても攻めることができなかった薩摩軍の西郷隆盛をして「官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と言わしめた「難攻不落の名城」です。
平成28(2016)年の熊本地震では甚大な被害を受け、完全復旧するのは令和34(2052)年の見込みです。

加藤清正像

天守閣

西南戦争の時に焼失しましたが、昭和35(1960)年に復元されました。平成28(2016)年の熊本地震では甚大な被害を受けましたが、復興のシンボルとして最優先に修繕工事が進められ、令和3(2021)年に完全復旧しました。内部は地上6階地下1階で、加藤清正による築城から細川藩主時代、西南戦争、昭和の復元、熊本地震による復興までをパネル展示しています。
最上階である6階は展望スペースとなっており、熊本の市街地を眺めることができます。

熊本城天守閣
熊本城最上階から眺める熊本の市街地

石垣(武者返し)

日本屈指の名城である熊本城において、特に特徴的なのが、「武者返し」と言われる独特な石垣の積み上げ方です。
地上近くは緩やかな傾斜で簡単に登れそうですが、上がるにつれて地平に対して垂直になり、甲冑を着ている武者はもちろん、忍者でも容易に登れなくなるような仕組みになっています。

武者返し

西南戦争と熊本城

明治10(1877)年に起きた日本最後の内戦である西南戦争において、東京に向かう薩摩軍にとって最初の攻略地である熊本、そこで熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)率いる新政府軍が迎え撃つことになります。
しかし、戦いが始まる直前、城内で火事が起き、天守閣が焼失しました。原因として、薩摩軍(またはその内通者)による放火や失火など様々な説がありますが、特定はできていません。
先の火事により、兵糧などが焼失し、薩摩軍14,000人に対して、籠城する政府軍は4000人という圧倒的不利な状況の中、武者返しなどといった城内の様々な仕掛けによって、50日の籠城を耐え抜き、薩摩軍の撃退に成功しました。

熊本地震による被害

平成28(2016)年4月に発生した熊本地震で、熊本城は大きな被害を受けています。その5年後である令和3(2021)年に、復興のシンボルとして、天守閣を優先してリニューアルさせましたが、震災から8年たった今でも、地震が起きた当時の生々しい被害を見受けることができます。

天守閣(右)と復旧工事が進む宇土櫓(左)
シートが掛けられた石垣
シートが掛けられた平櫓

最後に

熊本地震による被害がまだ生々しく残っている熊本城ですが、「日本三名城の一つ」とも謳われているだけに、城内には様々な仕掛けが施されており、立派な城であることは間違いないと思います。

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