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もう「人間のフリ」をやめる。
今回のサットサンで、僕はほとんど何も話さなかった。
参加者の方々に瞑想の誘導をした後、ほんとうに何も話さなかった。
いつもであれば、誰かが質問をするのだけれど、全員がサイレンスの中にいた。
はじめて参加された方々は驚かれたことだと思う。
今までのサットサンでは、「せっかく参加してくれたのだから、何か話さなくちゃ、何かを持って帰ってもらわなくちゃ」と思い、話すことを用意したりしていたのだけれど、今回はもう何も話さなかった。
質問されれば、もちろん答えるけれど、自分から沈黙を破らなくても良い、と心に決めた。
ようやく、ひとりの参加者が声を出したのは、サットサンが開始してから、50分後のことだった。それに呼応するように、もう一人の方が、
「瞑想で、深くくついでしまい、質問をすることさえできませんでした」
という趣旨のことを話してくださった。
〇
人が集まったら、何かを話さなくてはいけない、という空気感が当たり前にある。
僕は今でこそ、こうして瞑想会を主催する立場にあるため強制的に話すことをしているが、
たとえば、正月の親戚同士の集まりなどの際は部屋の隅っこで静かにしている。一言で言うと苦痛だ。
別に、僕は家族や親戚のことを嫌いなわけではない。
ただ、言葉を使って、彼らと流暢なコミュニケーションを取っている自分が役者になって演技しているように感じ、とても疲れる。
しかも、僕は普通の人生を歩んでこなかったので、久しぶりに会う従兄妹たちがしっかりと結婚して、子供をつくり、健全な社会人として生きている様子を見ると、自分が場違いなところにいると感じる。
というか、僕は生まれてからずっと自分が「場違いなところ」にいると思ってきた。
僕は服にも家具にも興味がない。弟からもらった服しか持っていない。結婚をする予定もないし、自分の子孫を残したい、という思いもない。
そんな自分がまるで「ちゃんとした人間」かのように、「久しぶりだね!最近、仕事はどうしてるの?」などと言おうものなら、自分が分裂しているように感じ、胸が痛む。
別に幼い子供たちがいても、彼らに微笑むだけだ。「うわぁ、大きくなったねぇ」とかは言わない。
何度も書くが、親戚の子供たちが嫌いなわけではない。ただ、目の前に子供がいれば、子供とアイコンタクトして、ちょっと頷くだけ。それでおしまい。
子供は、まだそれほど自我が発達していないので、高次の次元でのやり取りを理解している。
だが、大人の世界ではそうはいかない。社交辞令のオンパレードで、媚びへつらいが行き交う。
少なくとも繊細な子供ならその席に10分だっていられないだろう。部屋に引きこもるしかない。
〇
いよいよ、僕はもう正月行事のような集まりでみんなにニコニコして、「人間のフリ」をすることができなくなった。
だから、もう「人間のフリ」はやめる。
自分が「神」であることを思い出すこと。神というのは、「ありて、ある」ということ。
ただ、ある。
あなたが存在していることに理由はいらない。
家にお客さんが来ていても、ねむいなら、ねむってしまっても別に構わない。僕の瞑想会に参加しても、疲れているなら、ねむってもいい。話したくないのなら、話さなくても良い。
長女だから、長男だからと言って、気を張らなくてもいい。
誰にどう思われても構わない。
そのひとはあなたのことを次の日には忘れている。
「神」であるあなたはただ、「ありて、ある」だけだ。
人間に目を向けることをやめて、「神」に心を定めてごらん。
「神」というのは、どこかの次元や外側にいるわけではない。あなたの内側にある。
どんなに騒がしい場所でも、沈黙はそこにある。あなたが目を閉じる時──。
そこにいるだけで無条件にゆるされている沈黙は、どんなに騒がしい場所にでもある。
「神」とは深い沈黙のことだ。
今日ははじめてサットサンに参加させていただき、ありがとうございました。
実は、最初のうちは座っていましたが、あまりの眠たさに耐えかねず、途中から 本気で眠ってしまっていました💦
「はい」
のnaokiさんの言葉で、我にかえって、目が覚めて、降りてきたのが、
ゆるされているんだ、
という感覚でした。
そして、他の方が「人が集まったら、話しをしなくちゃいけない」
と思っていたという言葉をぼんやりした頭で聞いていて、
私は、人が集まったら喜ばせなきゃいけない、
と気づきました。
積極的に話題を出し、面白おかしく話す、その場にとって意義のある話しをする、積極的にはじめまして、の方に話しかける、
などなど、
私はどこにいても、役に立たないとゆるされない気持ち、安心できないから、その場をコントロールしようとしていた、
とハッと気づきました。
参加しているのに寝てしまう、なんて、少し前の私だったら罪悪感を感じていたと思います。
が、今の私はまだ思考がうるさくて、疲れていたから、寛げたら眠ってしまった、眠れてよかった、という穏やかな気持ちでした。
それどころか、ただいる、だけでよかったのに、
それではいけない、と四方八方に
常に気を遣って、だからいつも
疲れていたんだなあ、
と自分のやってきたことに気づきました。
ただある、
ただそこにいる、
が、これから少しできそうな予感がしています。
貴重なひとときを提供していただき、
ありがとうございました!!
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今週のサットサンは14日(土)の13時からです。zoomにて無料。入退出自由。カメラとマイクはオフで構いません。
参加を希望される方はこちら↓まで
naokifloweroftheheart@gmail.com