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自己表現しなくても、平和でいられるようになった。

今回のサットサンでは、今まで最高人数の11人の方に参加して頂いた。

でも、僕はおもてなしをするわけでもなく、特別な何かをするわけでもなく、ただ沈黙していた。

瞑想や精神世界の探求について、少数の質問をして頂き、答えたりしたのだけれど、僕はまとめ記事を書くことができない。

ここ1,2カ月ほど、大きな変容が起きていて、文章を書き、外側に向けて発信する、ということができない感覚がある。

今、「自分を表現をする」ということができない。他人に何かを披露する、ということが何も分からなくなってしまった。

世界が完全に夢(空)であって、この世界でやるべきことなど一つも存在していないという感覚。

深い静寂の中で、心がどんどん内側に引きずり込まれ、何かをしなくてはいけない、という意志が奪われてゆく。

僕にはもう誰かに自分を見てもらいたい、という思いがない。

眉間の奥にある気づきのセンターが目覚め、「観るもの」と「観られるもの」という二元の対立(デュアリティー)がなくなると世界が終わりを迎える。

僕が今、目覚めのサポートをさせて頂いている方々は、眉間の奥にあるセンターが目覚め始めている。

ある人はそこにエネルギーを感じ、別の人は光が視える、と言う。そして、そこに空間がある、と言う人もいる。

僕は10年ほど、自己表現をすることに熱中していたのだ。

それは主に、文章を書くことだった。書くことによって、感情を外に放出することで、スッキリさせていたのだ。

でも、最近、「表現するべき自分」と言ったようなものが無くなってしまった、と感じる。

源泉=真我=神の中に吸い込まれて、それと一つになると、自分の思いを誰かに知ってほしい、とか、受け容れてほしい、という思いがなくなる。

僕は今、安堵している。

表現しなくても、平和でいられるようになったからだ。

表現活動は今まで、たくさんやってきた。演劇もやってきたし、歌もダンスもした。文章も書いてきた。絵を描くこともやった。

問題だったのは、それらの表現をしていない間、不機嫌になるということだ。表現をやっている間は居心地が良いのだけれど、日常生活に戻ると、イライラしたり、動物的になることが嫌だった。

確かに表現することは僕にとってセラピーだったのだけれど、表現することに依存していたのだと感じる。

ずっと何かをやっていないと気が済まなかったのだ。

やがて、僕は瞑想を覚えた。瞑想をやりはじめてから、日常的に平穏になり、表現活動に依存することもなくなった。

そして、今、沈黙の中で完全に安らいでいる。何の条件もなく、ただ、椅子に座って、くつろでいるだけ。

聖者ラマナ・マハルシは何かを創作することによって、心を紛らわせるよりも、真我(ハート)に心を静めることをしなさい、と言っている。

あなたがより心を働かせ、より詩作活動に巧みになるにつれ、いっそう心の平安を失う。もし心の平和が得られないのなら、そのような才芸が何の役に立つというのか?だが、もしあなたが彼らにそう言ったとしても聞く耳をもたないだろう。彼らは静かになれないのだ。彼らは詩を作らねばならない……どういうわけか、私には本を書いたり詩を作ったりするということは一度も起こらなかった。

アーサー・オズボーン. ラマナ・マハルシの伝記 (p.269). 株式会社ナチュラルスピリット. Kindle 版.

今まで、サットサンやセッションで、悟りの境地にいる方々と対話する機会があったが、その方々は別に悟りとか目覚めについて、一々発信などしていなかった。

彼ら、あるいは彼女たちは、日常生活を淡々と送っていた。

ほんとうに源泉の中に溶け込むようになると、発信をして認められたいという自我がいなくなってしまうのだろうと思う。

でも、僕はこれからも書いてゆく。それが今の僕がやるべきことであって、仕事だからだ。

ただ、自己表現のために書くことはもうしなくても良い、という安心感がある。

必要がある時だけ、書けば良い、という気持ちでいる。

そして、出会うべき人とは、自分が努力しなくても、出会えるということも分かった。

外側の世界で評価されるために頑張ることよりも、自分が内側でいかに深くくつろぐか、ということの方が大事で、それによって、自分にぴったりの人や物事が自然に引き寄せられてくるのだ。

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本年最後のサットサンは28日(土)の13時からです。zoomにて無料。入退出自由。マイクとカメラはオフで構いません。

参加を希望される方はこちら↓まで。
naokifloweroftheheart@gmail.com


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