もはや、神によって言葉を奪われている。
サットサンで時間を共有しているだけで、心が静かになって、平穏を感じると言う方々がおられる。
以前、サットサンに参加してくださった女性がこんな感想をくれた。
この「13時52分」という時間帯は開始からずっと沈黙していたサットサンで、参加者がはじめて口をひらいた瞬間だった。
僕は脳波とか心拍の変化のことに関して科学的なことに詳しくはないが、サットサンの沈黙に共鳴しているひとは、自動的に心が安らぐのかもしれない、とその方からメールを頂いて、思った。
インドの伝説的なハートの聖者は、沈黙しているだけで、彼の元に来た人々の心(思考)を静かにさせていたと言う。
出会う方々から「あなたのことを観ているだけで、心が静かになる」と言われることがあるが、
その反対にサットサンに参加しても何も起こらなくて、期待外れだったと感じるひとももちろんいる。
僕は「サットサンに参加すればもれなく意識が変容します!」など言うつもりはない。そんなことはあり得ない。
そもそも、サットサンだけではダメなのだ。自分で瞑想をすることなどの修行が必要だし、ある程度のテクニックを習う必要もある。
ただ、何度もサットサンに参加されている女性が、(僕はその方に直接瞑想を教えていないのに)「最近、瞑想することが楽しくなってきました」とこの前、話してくれた。
〇
聖者や覚者と言うのは実際、やってくる探求者たちに特別な何かをしているわけではないのだ。
彼はただ、「気づきそれ自体に気づいている」のだ。
気づきに気づいているひとにとって、他者は存在していない。そして、ハートの奥深くに潜り込んでいる状態なので、「神」と一つになっている。
マハルシやキリスト、あるいはブッダと言うのは、ただの個人ではないのだ。
彼らは「空間」なので、彼らの元にやってきて、さらに目覚めの準備ができているひとには、浄化が自然に起こるのだろう。
〇
沈黙のエネルギーは、瞑想経験などの素養がない一般の方々には何が起こっているか気づくことができないだろうと思う。
でも、サットサンで沈黙している時、言葉にはできないけれど、非常に繊細なレベルで何かが起こっている、と感じる方々がいる。
意識が腹に向かって下に下に落ちてゆく体験をしたり、眉間の奥にエネルギーを感じる、あるいは、単純に心が静かになって、言葉が出てこない、ということを体験する。
悟った人の講演会などにお金を払い、着飾ったスピーカーの「悟りとは〇〇なんですよ!」と流暢で、賑やかなトークを聞いてエゴは満足するかもしれない。
でも、本当の悟りが起こると、内側に意識がぐいぐいと引き込まれるようになり、言葉が出なくなる。
だから、真の覚者はわざわざ講演会など開かない。
なぜなら、覚者は沈黙によって伝えるからだ。
もはや、覚者は神によって、言葉を奪われている。
覚者は講演会よりも、帰依者たちといっしょに瞑想をする。その時、沈黙を通して伝えるのだ。
サットサンを「神社の境内の中にいるみたいだ」と表現してくれた方が以前いた。
神社に行くひとは、静寂を求めている。流暢さは求めていない。
そして、もし、あなたのハートが開いていれば、僕はあなたと深くつながることができる。一言も話していないのにも関わらず……。
愛は言葉を越えている。
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今週のサットサンは21日(土)の13時からです。zoomにて無料。カメラとマイクはオフで構いません。入退出自由。
参加を希望される方は↓まで。
naokifloweroftheheart@gmail.com