ずっと見守られながら生きてきて、これからもそうある。
ブループリントという言葉が好きだ。
魂の青写真。
魂には望みがある。しかし、幼少の頃から教育で、その聖なる計画を台無しになってしまう。
大抵の場合、お金にならないといった理由で、やめてしまう。
最近、今世生まれてきた理由を深いレベルで感じるようになった。
エネルギーのレベルで正しい道を歩んでいるということを感じる。
今、僕は発信活動をしたり、セッションをしたりしているけれど、両親は僕が何をやっているのかまったく分かっていない。
でも、それに反対はしない。両親は何でもやらせてくれる。
魂はこの両親のところに生まれれば、ブループリントを遂行できるだろうという意図を持って、この家を選んだのだろうと思う。
エゴには分からない。もっとお金持ちの家に生まれたかったとか、そういう短絡的な思考をする。
魂と言うのは、ブループリントを遂行し、完成させるために生まれてくる場所と家、そして両親を計画的に選ぶのだ。
魂は完璧なタイミングで生まれてくる。
そして、僕はヨガをやるために生まれてきたのだ。
ヨガというのは、ポーズをとることだけではない。瞑想をすることや生き方も含めて、宇宙──神とつながる生き方のことだ。
僕はヨガを自由にやらせてくれる両親のところに生まれなければいけなかった。
20代は世間一般的な常識から言えば、会社員としてお金を稼ぐべき時期だが、両親は瞑想とヨガをすることをゆるしてくれた。
瞑想する習慣なんてないのだから、何をしているかまったく分かっていなかったと思う。でももゆるしてくれたのだ。
最近、セッションやサットサンをして、感謝され、お礼を頂くフェーズになって、全てが分かった。
前世で自分がヨガの修行していたこと──、
それがある程度の段階まで到達していたことを──。
そして、今世は人と関わり、縁があるひとたちに現象世界の苦しみから自由な静寂と平穏の境地がある、と伝えることを魂ははるか昔から描いていたのだ。
今、ジグソーパズルのピースがつながってゆくように、目の前でブループリントが解き明かされている。
「自分がなぜこの土地の、この家族の元に生まれてきたのか?」
「なぜ、二十代の前半という若い時期から、霊的な探求に入ったのか?」
「世界中の聖典が豊富に揃っている図書館がある大学に入学したのか?」
今、僕は自由意志の存在を大いに疑っている。確かに、全部自分で決めてきたように思える。
でも、ほとんど強制的に自分の意図を越えた「存在」の意志としか言えない力に動かされ、導かれてきた。
悩んでいたことも苦しかったこともぜんぶが、すでに前もって「筋書き」の中に書かれていたことの中にあった。
そして、今、感謝と、明け渡しの境地にいる。そして、深くくつろいでいる。
何一つとして、自分は決めていない、という安堵──。
ずっと聖なる母親の眼に見守られながら、生きてきて、これからもそうある、
という救済の実感。
ハートが完全にひらき、魂が抱きしめられている感覚。ぜったいに大丈夫だと言う感覚と現象の世界からの超越感。
その絶対的な安心の中で自我は力を失い、源泉であるハート・センターという「家」に沈みこみ、溶け去ってゆく。
そして、「神」と一つになった歓喜と「家」に帰ることができた安堵によって、魂は涙を流している。