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大人が流す涙は美しい。

10代の頃から走ることが好きだった。

この前、ジョギングをしていたら、胸のあたりから零れるように、悲しみが湧いてきた。

唐突で、原因は分からないが、走ることは僕にとってのブレスワークなのだろう。

つまり、走ることはセラピーなのだ。

読者のひとたちと対話をしていると、胸やお腹のあたりに原因不明の「かたまり」がある、という話を耳にする。

病院で検査しても異常がなく、治療のしようがない。そして、日常生活に支障や問題があるわけでもない。でも、なぜか気になる。

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三歳の姪が母親のところに走ってゆく。でも、ニ歳の甥っ子が先に母親に泣きつく。そして、自分が抱きしめられる機会が奪われてしまう。

それが繰り返される。

心の傷はかたまりになって、大人になった現在の身体の中で生きている。

だから僕は泣く。

幼児のように、誰にも見られていない場所で、部屋を真っ暗にし、顔をぐちゃぐちゃにして、泣く。

泣くことを人は我慢している。たとえば、「親だから」という理由で大人は泣かない。子供の前だから、ちゃんとしていなきゃ、と抑制している。

長女だから━━男なんだから泣くなと言われてきた。

おそらく今よりも僕の親やその親の世代はもっと抑圧的に育てられたのだろう。

その抑圧は時として、神経症や暴力を生む。そして、次の世代にそれが引き継がれる。

どうして男だから泣いてはいけないのだろう?

もし、あなたがちゃんと泣くことができたら━━自分自身に泣くことをゆるし、内側に平穏を見出したのなら、負の連鎖が止まる。

その時、あなたの先祖たちは安堵の涙を流す。

なぜなら彼らは自分を愛すること、ゆるすこと、つまり、泣くことをずっと我慢してきたからだ。

あなたが自分を癒すことで、先祖たちもろとも癒しているのだ。

我々は多かれ少なかれ、親たちが残していった課題(カルマ)を引き継いでいる。

たとえば、前世紀、あなたの親は兵士であって、猛烈なサラリーマンだったかもしれない。あるいは、伝統的な「家」の中に閉じ込められた主婦だったかもしれない。

だから、自分を癒すチャンスなんてなかったのだ。

彼らは、セラピーを受けることも、瞑想をする余裕もなく、一生を終えた。ハートを閉ざさざるを得なかった。

でも、今はちがう。今、あなたにはチャンスがある。

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泣いた後、身体はリラックスしている。筋肉のこわばりが緩んで、すっきりする。そして、静さがやってくる。

でも、ひとりでいる時でさえ、あなたは泣かない。

その抑圧が積み重なって、身体のどこかに緊張をつくる。

誰にも見られていない場所でさえ、見張っている自分が横にいて、「こら、泣いたらダメでしょう」とささやく。

以前、笑い瞑想に参加したことがある。

みんなでただただ笑うという瞑想なのだが、最初は笑えない。特に笑う理由はないから。

でも、時間が経つと、閾値を超える。笑いが内奥から出てきて、自分が笑いそのものになってしまう。

そして、周りのひとが自我を吹き飛ばして笑っている様を見ると、

「わたしもあんなふうに笑いたい!」

と思う。

涙は美しいものだ。泣くことに徹している時、自分が泣いている姿を横から眺めるようにしてごらん。

すると、自分がとてもチャーミングで━━愛すべき存在だと感じる。

子供たちの涙は美しいが、大人が流す涙はもっと美しい。それは見るものの心を洗い流す。

それにも関わらず、人々は一番美しいものをため込んでいる。

泣くことに徹していると、「あれ、何であんなに深刻になっていたんだろう?」と突き抜ける時が来る。

「たいしたことないさ」と思える時が来る。

ひとりで暗い部屋にこもって泣きはらした後、その部屋からあなたは出てくる。

すると、世界は一変している。より生き生きと穏やかに━━輝いている。

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サットサンに参加された女性が「病院に行っても問題ないと言われたが、胸に苦しみがある」と言われた。

胸はハートチャクラに対応している。ハートとは愛のことだ。

自分を否定し、愛することが不足している時──悲しみをため込んでいる場合、ハートは傷つく。

その苦しみといっしょに漂い、受容することをしてください、と僕は言った。

悲しみを受容するとハートがひらいてゆくから。

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今週のサットサンでは悲しみを受容し、傷ついたハートを修復するためのワーク(祈りや瞑想)をすることにします。




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