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誰のことも癒そうとしていない。

ヒーラーを志すひとは多い。でも、本当のヒーリングは自我が溶け去った時に起こる。

前回のサットサンに参加されたnoterのkarin様のエピソードがある。

karin様は、瞑想をしたいとか、悟りたいという理由でサットサンに参加されたのではなかった。

ただ、休息したい、というのが主な理由だった。

僕はサットサンの間、誘導瞑想をしたり、質疑応答をしていたので、karin様の身体に何が起こっていたのか分からなかった。

サットサンが終わった後、karin様からすぐにメールを頂いた。

疲れていたので、サットサンの間、ベッドの上で休んでいたら、そのうち、身体が振動して、浮き上がる体験をされていた。

自分でコントロールしていないのに、身体が自然に動いた、という感想をたまにもらう。

そして、僕は「それは自発動」です、と答える。

とてもリラックスした状態にいる時、潜在意識の中で抑圧していたネガティブな感情が表に出てこようとする。その時、身体が自分の意図とは異なったかたちで動くのだ。

そして、karin様は人生が好転するような体験を数日前にされたようだった。

ヒーリングは自分で起こそうと思っても起きない。

深いくつろぎの中で自分を明け渡した時、「向こう側」からやってくる恩寵の力によって、ヒーリングが起こる。

それは、誰か悟ったひと(リラックスしているひと)のエネルギーに触れることで起こりやすいのだけれど、

そもそも悟ったひとは、全体性の中に溶け去っているので、誰かを癒したい、とかヒーリングをしたい、という願望がない。

ワンネスの中に溶け去って、ただひとりで満ち足りているひとは誰かを癒したいとは思わない。

ヒーラーというのは、個人性が全体に溶け去ったひとのことだ。

全体に溶け去るには、「気づきに気づく」ことが求められる。

気づくことはたくさんのひとがしている。

呼吸に気づく、身体の動作に気づく。それはマインドフルネスである。

でも、「気づきそれ自体に気づいている」ひとはどれくらいいるのだろうか?

気づき、は自分が観ている景色や、他人、あるいは、自分の思考などに向いている。

その気づきをそれ自身に180度向け返すこと。

気づきが気づかれる時、気づこうとしないのに、どこにも焦点が合わずに、全体に気づいている状態になる。

やがて、気づき(意識)が空間に広がってゆく。

ワンネス(全体性)の目覚めだ。

気づき(第六チャクラ)が大空に広がって、ハラ(第一、第二チャクラ)が大地に溶けることで、ワンネスに達する。

おそらくこの時初めて、ひとはヒーラーになれるのだ。

全体性に到達して初めて、ひとは癒そうとしていないのに癒すことができる存在になる。

究極的に言うと、悟ったひとに他者は存在していない。

なぜなら、「気づきに気づく」と対象物(他者)の存在が消えるから。

(物理的に消えるわけではありません。あくまで、高次の視点から観て消えるのです)

だから、ヒーリングを仕事にすることもないし、それで生計を立てたいとも思わない。

今まで、ヒーラーをされてきた方や、ヒーラーを志してきた方々とお話する機会が何度もあったが、最終的に、他者を癒そうとするよりも、自分が悟ることの方が大切だと思われたようである。

思考や感情でいっぱいで、生きることが苦しいと感じている場合、誰かを癒すよりも自分が悟ることが先決だと個人的に考えている。

そうでないと本当の意味でのヒーリングは起きないのだ。

以前、ヒーリングについて一度だけ記事を書いた。

上記の記事で紹介した、ジョエル・ゴールドスミスは20世紀半ばの有名なヒーラーだったが、彼はキリスト意識(ワンネス)の中に溶け去った瞑想家だった。

エネルギーワークもヴィジュアライゼーションも何もせず、癒そうともせず、ただ、「私は在る(I AM)」にとどまっているだけで人々を癒していたという。

そして、ゴールドスミスによると、彼がやっていたヒーリングは2000年前、キリストの起こした奇跡と同じ方法だと言う。

僕は彼が本当のヒーラーだと思う。

癒そうとしていないのに、自分の意図を越えたところで、勝手に癒している。

その無欲さ──資本主義の超越。

ところで、僕は悟りについて教えたいとは思うけれど、誰かのことをヒーリングしたいとは一切思わない。

僕は「神」=真我にとどまっているだけで十分満たされている。

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明日の13時からサットサンを開催します。ZOOMにて無料。入退出自由。カメラとマイクはオフで構いません。

参加を希望される方はこちらまで↓まで。
naokifloweroftheheart@gmail.com

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